天安門事件をキッカケに、中国共産党は怖くないと確信した--蔡衍明・旺旺集団董事長
倒産寸前から、世界最大の米菓子メーカーへと成長した台湾の旺旺集団。日本の老舗米菓子メーカー、岩塚製菓との提携が転機となった。同社を台湾有数の食品会社に育て上げた蔡衍明(さいえんめい)董事長に中国ビジネスで成功するためのポイントを聞いた。
--旺旺の成長で日本の岩塚製菓との提携は重要な意味を持っていますね。
岩塚製菓がなければ、今の旺旺はない。もともと私たちの宜蘭食品は魚の缶詰などを作っていたが、赤字で悲惨な状態だった。それが1983年に岩塚と提携して煎餅の生産を始めて以来、順調に利益を上げ続けている。旺旺の社名も83年から使い始めた。
最初に岩塚を提携のお願いで訪ねたとき、私は24歳。岩塚の当時の社長(故・槇計作氏)は40歳年上だった。正式に提携を断られたとき、私は日本に駆けつけ、社長にあらためて直談判した。そのときは工場の中で話をしたが、社長は工場にある神棚に供えられたお酒を私に飲ませてくれた。そしてこう言った。「これは金儲けのお酒。あなたがそこまで言うなら提携しましょう。失敗したら、私は社長を辞めます」。
その社長を、私たちは「旺旺の父」と呼んでいる。彼からは「あなたとなぜ提携したのか、自分でもよくわからない。まさに縁としかいいようがない」と言われたことがある。旺旺の経営理念「縁、自信、大団結」の縁は、彼の言葉から取ったものだ。
--台湾から中国大陸に進出した経緯は。
旺旺は台湾で90%以上のシェアを持ち、とても儲かっていた。だが、成長が遅いと感じていた。私たち食品会社は、口があればおカネがある。台湾は2300万の口。中国は十数億の口。将来性があると考え、進出を決意した。中国には当時、お菓子といえるものはほとんどなかった。煎餅をきれいに包装して発売すると、消費者には大歓迎された。
旺旺の製品を中国で正式に発売したのは94年。92年に湖南省長沙市で煎餅の工場建設に着手したが、電力供給に問題があって完成するまでに時間がかかった。
もちろん、当初は苦労が多かった。たとえば、代金回収の問題。工場建設に着手すると同時に、中国の食品見本市に出展した。大変な人気になり、コンテナ300本分の契約がまとまった。だが、前金方式をとったので、本当に送金してくれるのか不安になった。現地で情報を集めると、三分の一なら大丈夫だろうという。そこで、コンテナ100本分を台湾の工場で必死になって生産した。