ところが、勉強を拒否し続けてきた山下さんは、アルファベットも書けなかったようで、近畿圏最大規模の模試である五ツ木模試で、偏差値32を取ってしまいました。
「私学の野球部の誘いを全部断ったのに、この成績だったので、進学できるのかどうか、親もすごく心配していました。さすがに私もこの結果ではまずいと思い、親にお願いして夏休みごろに個別指導の塾に入りました。受験するころには偏差値50まであげて、ギリギリ合格することができました」
「授業プラス4時間の自主勉強を7カ月続けた」と語る山下さんは、努力の甲斐あって東大阪市立日新高等学校に入ります。しかし、ここで彼は自身の野球人生最大の挫折に直面することになりました。
PL学園にボコボコに負けて絶望
「高校に入ってからは野球部に入り、野球に打ち込みました。朝練もあるので家を6時に出て、7時から練習し、授業が終わってから毎日夜の9時まで練習していました。家に帰ったら10時を過ぎていましたね。無理して入った学校だったのに、野球部の練習が過酷すぎて一切勉強できず、テストは全部20~30点くらいでした。順位はクラス40人のうちで39番くらいでしたが、1人は不登校だったので実質最下位でしたね」
勉強やほかの生活を犠牲にして野球に打ち込んだ山下さんは、部員が30名いる環境でも、1年生の夏から背番号をもらってベンチ入りし、3年生が引退してからは試合に出るようになります。
しかし、彼は9月の秋の大会が終わった途端、野球部を退部する決断をしました。
「秋の大会で、甲子園常連校のPL学園と対戦したのですが、そこでボコボコにされて負けたんです。PLの選手は次元が僕らよりも3段階くらい上で、練習量ではどうにもならない実力の違いを感じました。『こういう人たちが甲子園に行くんや……』と絶望してしまって、野球を辞める決断をしました」
才能の違いを感じ、ずっと続けてきた野球部を辞めた山下さんは、学校に行かなくなり、バイクの免許を取りに行くなど、しばらくは遊んでいたそうです。
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