紫式部「宮仕え」友達に言えぬ程恥ずかしかった訳 宮中での煌びやかな印象とは対照的な見方
宮仕えに対する冷ややかな見方があると受け入れつつも、清少納言は自分が宮仕えしていることもあり、どうしても宮仕えのよさも主張したいようでした。
「将来に大きな望みがあるわけでもなく、真面目に夫と家を守り、ささやかな結婚生活の幸せを思っているような人は、私には気が滅入るくらい馬鹿馬鹿しいものに思える。
相当な身分のある家の娘は、宮仕えをさせて、広く世間というものを見聞させ、典侍(上級の女官)などにして、しばらくお勤めをさせたいと思う」などとも言っているのです。さまざまな人と触れ合うことは、世間を知るきっかけになると清少納言は主張しています。
実際、娘が宮仕えすることは、家族にとってメリットになることもありました。実家の男性たちや、夫・息子の昇進に影響を及ぼす可能性があるからです。
紫式部と交流もあった赤染衛門は、息子の任官に精を出し、彰子に懇願、その望みを果たしています。
また紫式部の兄・惟規(※弟の説もあり)は、寛弘4年(1007年)に蔵人に任命されていますが、これも紫式部の宮仕えと多少は関係もあるのではないかとされています。
先程、紹介した藤原実資のような公卿であっても、養子の任官のために、彰子や女房に依頼したりしているのです。「天皇や皇后様に上手く取りなしてください」と頼み回る公家たち。そのような姿を目撃、いや体験することも、世間を知る1つの契機となったでしょうし、当時の女性たちの自尊心を満たすものではあったでしょう。
紫式部は宮仕えをどう思っていたのか
家にとって、実益となる面もありながら、男性たちは、なぜ、娘(女性)の宮仕えを「恥」「軽薄」としたのか。それは、宮廷での女房生活が、男女関係が乱れやすいものだったこともあると思います。
複数の親王との恋愛遍歴、奔放な恋愛で有名な平安中期の歌人・和泉式部の事例は極端かもしれませんが、大なり小なり、娘がそうしたことになりかねないのが、親にとっては恥と受け止められた可能性はあります。
では、肝心の紫式部は、宮仕えをどのように見ていたのでしょうか。『紫式部日記』には次のようにあります。
「私などは、人並みな付き合いができる人間ではないけれど、でも、恥ずかしい、つらいと思い知るようなことは免れてきました。それでも、宮仕えに出てからは、我が身の情けなさを存分に思い知りました」と。
紫式部もやはり宮仕えを恥ずかしいことと感じていたことがわかります。紫式部の日記の続きを見てみましょう。
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