人前で話をするのが怖いのに、大勢の前で話す羽目になったことのある人はみな、私たちの祖先が捕食者に直面したときに感じたのに似たもの、すなわち、典型的なストレス反応を経験したはずだ。
それは完全に正常であり、たいていは、どうということはない。だが問題は、マーモットとサポルスキーが揃って主張しているように、闘争・逃走反応が一部の職場や生活様式では、短期的な緊急事態ではなく慢性的な状態になってしまった点にある。
恐ろしい捕食者に出くわすといった例外的な非常事態ではなく、特定の仕事の苛酷さのせいで、私たちはストレスモードに入る。たんに急性のストレスであるべきものが、今や私たちのあまりに多くにとっては日常的なものになっているのだ。
この関係が非常に理解しづらいのは、1つには、現代社会では「ストレス」という言葉が、強烈ではあっても生物学的にはストレスに満ちていないものを指して使われるからだ。
裁量権のなさが健康を悪化させる
責任の重い仕事の多くは強烈(マーモットなら「要求が厳しい」と言うだろう)ではあっても、ストレスには満ちていない。なぜなら、私たちはその仕事をおおいに楽しむし、(「大きな裁量権」を持つことで)結果を左右することができるからだ。
自分のスタートアップが軌道に乗りはじめるところを目の当たりにしているCEOは、自分の目覚ましい躍進を「ストレスに満ちた」ものと言うかもしれないが、じつは、生理学的な観点に立つと、それは少しもストレスに満ちてはいない。胸が躍る、素晴らしい体験だ。
強烈で激しい仕事は、生物学的なストレスと同じようには、健康にかかわる通常のプロセスを妨げたりはしない。ところが、私たちは日常会話で両者を混同するので、じつは情熱や強烈さであるものを、ストレスとしてしまうことがよくある。
だが、マーモットの研究によると、低い地位の職に就いていると、有害な生物学的ストレス反応を現に起こしてしまうという。
ただし、高い地位の職でも、要求が厳しくて裁量権が少ないと、やはり同じ結果が見られる。酷使されている用務員は、裁量権がないせいで健康状態が悪化する危険が常に大きいものの、特定の状況にあるCEOも、そのような危険にさらされうる。それでは、これは実世界ではどのように表れているだろうか?
(翻訳:柴田裕之)
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