日本で「職場での傷つき」が軽視されている大問題 できる人は「機嫌がいい」「怒らない」だろうけど
――あのときのあなたの傷つきや悲しみや怒りは、職場でろくに口外されずに、どうなっているんでしょうか?
シャボン玉のごとく、きれいさっぱり消えたのでしょうか。いつまでも気にしているほうが悪くて、さっさと「メンタルを強く」すればすむのでしょうか。もしくは「怒らない技術」「いつもご機嫌でいる作法」があれば、平静を装えるのか。
はたまた、「職場での傷つき」は、"自分が仕事できないやつだから仕方ないんだ“”期待に応えられない自分が悪いんだ、能力が低いからダメなんだ"などと納得させてしかるべきなのでしょうか。その答えは総じてNOだと考えます。
「能力評価」が「傷つき」を見えなくしている?
「あの人やる気ないよね」
「うちの部署は問題社員ばかり」
「残念な上司のもとで成長しそうもない」
「社長にリーダーシップがないから、うちの会社はぱっとしないんだよ」
聞いたこと、もしかしたら言ったことのある、お馴染みの発言ではないでしょうか。上司から部下へのみならず、部下から上司のパターンも含む、働く個人に対する立場からの言いぐさ。
その矛先は、相手の「やる気」や態度、「リーダーシップ」をはじめとする「能力」への「評価」に向けられていることが多いわけですが、これらの一見それっぽく聞こえる「能力評価」こそが、「職場で傷ついた」と言わせてくれない労働・職業世界をつくっているのではないか?
そんな仮説を解きほぐしていこうとしているのです。逆に言えば、
・言われたことしかやらない職場
・多様性はかけ声ばかりで、実は排他的な職場
・上意下達で創造性や革新性が立ち現れない職場
などの、疲れた職場という問題は、社員個人の「不出来」「能力・資質」「メンタルタフネス」の問題にされがちです。そして、組織は個人の「選抜」「育成」に躍起になっていますが、足元の個人の「傷つき」をなおざりにしたまま、功を奏すことはあるのでしょうか。
このような問いを入口に、「職場の傷つき」が、公言されずともどのような場面で実は存在しているか? それなのに、本人が申し出ることはなぜないのか? の背景に迫ることから「組織開発」をはじめていきます。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら