日本で「職場での傷つき」が軽視されている大問題 できる人は「機嫌がいい」「怒らない」だろうけど
悲しんだり、怒ったり、泣いたり、焦ったり。いろいろと心が揺れ動き、忙しない自分のことが、よりみじめに思えてくることも少なくありません。そして結局、「幸せ」なそぶりを研究しながら、生々しい痛みを堪え、動揺なんてなかったことにして生きていく。
でもこれ、確かに抱いた感情なのに、隠したり、なかったことにしたり、って、どこまでうまくできているんでしょうか。「え、なんで? ひどい」という困惑は、雑音でしかなく、それゆえ忌み嫌い、なきものとしつづけていて、大丈夫なんでしょうか。
これほどキラキラした社会において、大手を振って言い出しにくいことではありますが、「傷ついている」。これが本音ではないでしょうか。
「幸せ」を追い求めたい人間の性は理解しているつもりです。しかし、いや、ゆえに、この「傷つき」の話をしようと思います。それもあえて、仕事における「傷つき」を紐解こうとしています。
なぜか。組織開発者として数々の職場に分け入り、対話するなかで、いよいよ本題に入ったサインが意外にも、「要は自分、『傷ついている』っていうことなのかも」という言葉が本人の口から出たタイミングだと、常々感じてきたからです。
これまで「もやもや」という言葉でそれなりに表現されてきましたが、「傷つき」を自ら言葉にして初めて、事態が好転していくことをいく度となく、さまざな職場で目の当たりにしてきたのです。
職場で「傷つきました」は禁句
「いやー、でも職場で『傷つき』なんてそうそう聞かないですけどねぇ」とおっしゃる方いるでしょう。確かに「職場で傷ついた」と口にしてみても違和感がありますよね。自分でさえ、書けど、読み上げれど、不慣れというか、馴染みがないというか。ずっと「職場」やそこに渦巻く感情を仕事にしてきた私であっても、聞き覚えのないフレーズなわけです。
ですが私は、このひっかかりにこそ、一層着目すべきと考えます。というのも、人生の多くを費やし、心血注ぐ場である「職場」と、同じく実生活・実社会において多々経験する「傷つき」が同時に使われてきていないのだとしたら、これはやはり、奇妙なことだからです。
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