「金持ちエリート政党」に変貌したアメリカ民主党 トランプ&サンダースが前面に出る絶望的状況

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ベトナムからの撤退に悪戦苦闘した共和党リチャード・ニクソンには最後のニューディール政治家の一面もあり、物価賃金統制や飢餓対策など「大きな政府」による対策を打つが、スキャンダルにまみれて失脚。

その共和党側では1950年代からニューディールに親和的な東部エスタブリッシュメントに対抗する動きが起きていた。民間活力を重んじ「小さな政府」を主張する一方で伝統的価値観の復活や強い反共産主義に力点を置く「フュージョニズム(融合主義)」の保守主義勢力が、着々と党内で地歩を固めていたのだ。

1980年大統領選におけるロナルド・レーガンの当選は、30年の準備期間を経て達成された保守勢力の勝利であり、「ニューディール連合」の崩壊といわれた。経済政策的には「小さな政府」と規制緩和のネオリベラリズムの時代に入ったというのが、一般的理解である。

民主党のネオリベラル化

ただ、実際の歴史はそれほど図式的な転換が起きたわけではない。ニューディール的な政策を打ちながら挫折していった共和党ニクソンの後、短期間の共和党フォード時代を経て大統領となった民主党ジミー・カーターは、どん詰まりの経済を打破するために次々と規制緩和策を打ち出し、ネオリベラリズムの時代のさきがけとなった。政治に強い宗教色を持ち込んだり、外交に人権を持ち込んだりもし、保守政治への転換はカーター時代に始まる。

また、ニューディール連合の崩壊は、レーガンの登場を待たずにニクソン時代(1969〜1974年)から始まったといえよう。

まずはニクソンの「南部戦略」である。ジョンソン政権による1964年公民権法、1965年投票権法の達成による黒人の法的平等化は保守的な南部白人の反発をかった。当時の南部は民主党一党支配のような状態だったが、この好機を利用してニクソンは共和党の南部進出を図り、党の全国政党化を達成する。黒人の法的平等化が南北戦争後の「再建期」以来の課題の達成ならば、共和党の南部進出も「再建期」以来の課題の克服であった。ともにアメリカ政治・社会の大転換である。民主党はニューディール連合の一角を占め大きな票田であった南部を失っていく。

それだけではない。ニクソンによる労働者票の取り込みも、民主党の重要な支持基盤を侵食した。労働者票がニクソンに流れていった典型例として語られるのは、ニューヨークでの学生らを中心としたベトナム反戦デモに対する、ニクソン支持の建設労働者らの殴り込みだ。労働者層が左傾化を強める民主党から離反していったことを象徴した出来事であった(1972年。Phillip Shabecoff, “Hard Hats Spurred Nixon Labor Bids,” The New York Times, Oct. 12, 1972, p.40.)。

ニクソンは賃金・物価や労働安全基準などでも積極的な手を打って労働者を取り込み、これが数年後にはさらに大挙して労働者が共和党のレーガン支持に流れる動きにつながる(彼らは元来は民主党支持者だったからレーガン・デモクラッツと呼ばれた)。

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