サブカルチャーは時間遡行をどう描いたのか? SF作品から「時間の流れ」について考える

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逆に、主人公が何度も過去に戻っているのに、まるで手品のようにタイムパラドクスを回避することで興趣を盛り上げる作品もあります。ロバート・A・ハインラインの短編小説「輪廻の蛇」は、その究極的な例かもしれません。

ただし、タイムパラドクスをSF的な仕掛けとして積極的に利用するケースは比較的少数であり、多くの作品では、パラドクスから目を背ける、あるいは、パラドクスは(なぜか)起きないことにする――という方法をとっています。近年の日本の作品からいくつか例を挙げましょう。

筒井康隆「時をかける少女」の時間跳躍スキル

過去改変をテーマにした日本の作品でよく知られているのが、筒井康隆の中編小説「時をかける少女」(1967)でしょう。

主人公の女子中学生は、不思議な出来事をきっかけに時間跳躍の能力を獲得し、トラックに轢かれそうになった瞬間、前日に戻って同じ一日を繰り返します。

この時間跳躍は、身体などの物質的存在が時間移動するのではなく、意識だけが過去に飛ばされるので、タイムパラドクスは起きないと思えるかもしれません。

しかし、ヒロインは未来の記憶を保持しており、それを使って翌日の交通事故を回避することができます。もし轢かれそうになるという体験が実際に起きないのならば、なぜそんな記憶を持っているのか説明が付きません。これが、情報に関するタイムパラドクスです。

「時をかける少女」は、中高生向けの雑誌に連載されたジュブナイル小説であり、科学的な説明はほとんどありません。むしろ、自分が他者と異なる人間に変化してしまう怖さや、明瞭な記憶が事実でないかもしれないという不安のような、思春期の惑いを描くことが主目的の作品なので、あえてパラドクスには目をつぶったのでしょう。

この小説は人気を呼び、繰り返し映像化されます。特に有名なのが、大林宣彦監督による1983年の実写映画と、細田守監督による2006年のアニメ映画です。

大林作品では、起きなかった出来事の記憶というモチーフを拡大し、自分が事実だと信じて疑わなかったことが、実は捏造された記憶だった悲哀が強調されました。

一方、細田作品では、自分にとって都合の悪い出来事を時間跳躍で「なかったこと」にしているうちに、自分の力ではどうにもならない大きな悲劇を生み出してしまう物語が展開されます。

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