私たちがこうした問題を意識するかしないかにかかわらず、資本主義に立脚した世界システムは着々と領域を広げつつあります。その完成はもはや時間の問題であり、資本主義が世界を完全に覆い尽くす直前まで来ているというのが、私の現状認識です。やはりアメリカという世界のスーパーパワーが、自由至上主義のリバタリアン的な思想に立脚した国であるというのが大きいと思います。
ここで言う世界システムというのは、近代世界システム論のイマニュエル・ウォーラステインが提唱した巨視的歴史理論で、これまでの歴史学のように、各国を独立した単位として扱うのではなく、より広い「世界」という視点から世界史を考察するものです。
ウォーラステインの発想は、「長い16世紀」(1450-1640年)を提唱した『地中海』のフェルナン・ブローデルが提唱した、歴史の重層的な波動という見方に大きな影響を受けています。帝国、都市国家、民族など複数の文化体を含む広大な領域に展開する分業体制であり、ひとつの国や民族の枠組みを超えていることから世界システムと呼ばれています。
資本主義システムの中で「僕たちはどう生きるのか?」
16世紀に成立した近代世界システムがユニークなのは、過去の世界システムが世界経済から世界帝国へ移行したかほどなく消滅したのに対し、世界帝国にはならず政治的には分裂したまま存続している点です。そして、これを可能にしているのが資本主義だというのです。
私たちは好むと好まざるとにかかわらず、資本主義に立脚した世界システムの中に生まれ落ち、そこに組み込まれて生きています。その全世界化した資本主義とどのように対峙していくのか、つまり個人として「どう生きるのか?」というのが、私たちに投げかけられている問いなのです。単にその中で踊るのか? 踊るフリをしながら反転攻勢の機会を伺うのか? それともその巨大システムに真っ向から立ち向かうのか?
さまざまな生き方があり得るとは思いますが、こうした自分を取り巻く状況をよく観察し、よく理解したうえで、「僕たちはどう生きるのか?」を考えるのが、教養というものの意味なのではないかと思います。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら