伊周を露骨に引き上げたのは、言うまでもなく、父の道隆である。伊周にとっては祖父にあたる兼家が亡くなると、道隆が摂政・関白となり、政権を我が意のままとした。道隆は定子を入内させるや否や、強引に中宮にし、その一方で長男の伊周を急速に出世させた。
まさに中関白家の絶頂期に、清少納言は定子のもとにやってきた。
伊周と一条天皇が徹夜で漢詩を勉強
定子の姿をただ感嘆して眺めることしかできなかった清少納言。しばらくは、ずいぶんと気兼ねしたようだ。『枕草子』で、次のように振り返っている。
「宮に初めて参りたるころ、もののはづかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々参りて……」
立ち居振る舞いなど何もかもにおいて、気が引けてしまったのだろう。「涙も落ちぬべければ」、つまり、涙がこぼれてしまうほど緊張して「夜々参りて」、夜に参上するようにしていたという。
しかし、そんな清少納言も、月日が経つにつれて、宮中での生活に慣れてきたと思われる。『枕草子』では、一条天皇や定子のそばにいながら、必死に眠気と戦った自身の様子が描かれている。
そのときは、大納言の伊周が一条天皇のところにやってきて、漢詩について講義をしていたという。
「いつものように、すっかり夜が更けてしまった」(例の、夜いたくふけぬれば)とあるので、勉強熱心な一条天皇と伊周が学問について話し出したら、止まらなかったらしい。
眠くなった女房たちが1人、2人と抜けていくなか、清少納言はちゃんと残っていた。だが、「ただ一人、眠たいのを我慢してお控え申し上げていたのですが」(ただ一人、眠たきを念じて候ふに)とあり、かなり睡魔と格闘していたようだ。
「ほかの女房がいるならばそれに紛れて寝てしまうのですが」(また人のあらばこそは紛れも臥さめ)と、出遅れて退出できなかったことを、後悔しているあたりも面白い。
先に限界が来たのは、ほかならぬ一条天皇だった。「柱によりかからせ給ひて、すこし眠らせ給ふ」とあるように、柱に寄りかかって眠ってしまったという。
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