自殺した人の絶筆が商品となり、120年後の現在はオープンソースの資料にもなっている。いまの常識では相当起きにくいプロセスを辿ったことは間違いない。一方で、もう少し時代が早ければ、商品化されなかった可能性が高い。そんなレアな存在である「巌頭之感」の背景には何があったのか。
絵はがきブームの草分け
まず注目したいのは、「巌頭之感」が撮影されたという事実だ。
1903年当時、カメラ技術はすでに全国に広がっており、各地で写真館が営業していた。ただ、趣味としての撮影が広がるのは1910年代に世界中でヒットした「ヴェスト・ポケット・コダック」の登場を待たなければならない。つまり、写真を残せる人材が相当に限られていた時代だった。
そうした中で地元の写真家がいち早く滝口に登って「巌頭之感」を撮影したのは、藤村の自殺のニュースバリューを見越してのことだったと思われる。
実際、事件は数日後に複数の新聞が報じられてたちまち全国区の話題となった。報道の中で「巌頭之感」も知られる存在となり、すぐに後追い自殺が多発したことから、1カ月もしないうちに行政の判断で削り取られている。自殺の名所の象徴となる絶筆をそのままにするわけにはいかなかったのだろう。後日、ミズナラ自体も伐採された。
しかし、すでにカメラに収められた「巌頭之感」の拡散をとめることはできなかった。写真を印刷した絵はがきは、観光土産として飛ぶように売れたという。
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