「バナナの食べ方ひとつ」で"疲れた脳"は回復する 動作を「ゆっくり」にすると、人間関係も変わる
2つは別物といいながら、しかし連続性があります。
意識を集中させる瞑想を生活のなかで習慣的に実践してゆけば、脳はフォーカスト・アテンションからオープン・モニタリングへと切り替わり、自然と意識が外の世界に向かうようになるからです。
呼吸瞑想をしていてもそうです。
「今、この瞬間」の呼吸に意識を向けると、心が静かになります。
そのまま続けていると、「足の裏がかゆいな」とか「外を車が走っているな」とか「あのメール、早く返信しないとな」などと、さまざまな雑念が湧いてくるでしょう。
これはサマタ瞑想中に雑念が生じた状態です。
はじめのうちは、基本的にそうした雑念に対しては、「呼吸に注意を戻す」ことで対処するのがサマタ瞑想です。
ところが、こうした瞑想を日常的に取り入れてゆくなかで、あるときふと 「今、呼吸を感じながらも、外の世界のいろいろな物事を同時に認識できているな」 という状態が惹起されることがあるのです。
コントロールすることを手放す
サマタ瞑想から、ヴィパッサナー瞑想に切り替わった瞬間と考えられます。
ただしこうした変化は、ただサマタ瞑想だけを延々と続けるスタイルではなかなか得られないと考えます。
例えば、人里離れた山中でひたすら瞑想を続ける仙人のように、外的環境との接点を断って自らの瞑想に没入するだけでは、どこまでもサマタ瞑想のままなのではないでしょうか。
しかし、禅の修行はそうではありません。
確かに坐禅をしているときにはサマタ瞑想の状態が想定されますが、禅の暮らしにおいてはすべての生活行為を修行として扱います。