中野:私も、近代が普遍性を追求しているように見えることは必ずしも否定していません。ただ、普遍性を追求しているのは近代のエリートやインテリたちだけだということです。加えて、エリートやインテリたちは前近代でも普遍性を追求していたのです。ただ、近代になってからは、フランス革命のように、インテリ連中が普遍的な理想に基づいて民主化を始めたら、想定外に、サムウェア族論的なものが出てきてきたということではないか。
佐藤:近代が本格的に開花したあたりで、「大衆の政治参加による土着性・個別性の強調」が起きたということですね。しかしそれを、近代そのものの本質と見なすべきかどうか。
聖書の翻訳がもたらした近代
中野:というよりも、近代というものをどう理解するかという問題です。つまり、前近代が個別的で、近代は普遍的だというのは偏見かもしれないということです。グローバリゼーションが進んだ結果、妙なことに封建制が戻ってきて、パラドックス的に歴史が逆行しているように見えるかもしれませんが、実はパラドックスではない。近代になって初めて私たち一般庶民が権利を持って、生意気にも意見できるようになった。それに対してエリートたちがかつてのように、一般庶民を排除した世界をつくろうとした。それがグローバリゼーションなのではないかということです。
施:拙著『英語化は愚民化』でも書きましたが、私も中野さんの近代理解に非常に近いです。近代は、よく言われるように宗教改革から始まったと私も考えるんですが、やはり聖書の翻訳が一番大きなきっかけだと思います。それ以前の中世では、エリートにとってはグローバリズムのようなものがあって、ヨーロッパ主義が根強かったんですよ。カトリックのエリートたちは、コスモポリタンで、ナショナルなものよりもそっちを高く評価していたんですね。
中野:彼らは、国を行ったり来たりして選んでましたもんね。王朝だってみんな混血です。
古川:そもそも「カトリック」は「普遍」という意味ですからね。
施:そうですよね。ルターやカルヴァン、ティンダルらも、近代をつくろうなんて全然意図していなかったと思うんですよね。彼らは、ローマカトリック教会の堕落を批判し、教会を通さずに神の言葉を学べるようにしようとしたわけです。その結果、聖書が俗語に翻訳され、長らく抑え込まれていた俗語が知的な言語へと脱皮し、庶民が自分たちの日常生活の言語である俗語で本を読み、学び、視野を拡大することができるようになったのです。