戦後日本のインテリがグローバル化に逃げた理由 「ラテン語」と無関係な日本語の優位という逆説

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佐藤:ただし日本の問題は、敗戦このかた国家を否定する風潮が支配的だったこと。国家を否定しながら、ナショナリズムを掲げるのは明らかに無理筋。近代をめぐる理解の問題など持ち出すまでもなく、グローバリズムに走るのは当然なのです。

「日本は日本だ」と言えない弱さ

中野:日本人がグローバル化に傾いたのは、平成不況なんかで自信をなくしたこともありますが、佐藤さんがおっしゃった敗戦、もっと言うと、黒船が来てから、国際的に遅れたり孤立することへの強迫観念が根強いのだと思います。何かの文献で読んだ覚えがありますが、80年代の日本経済が絶好調で、世界第2位のGDPだったときでも、日本人は、日本は脆弱であるという強迫観念から抜けられていなかった。だから、貿易摩擦のときでも、「日本人ってなんであんなに十分豊かなのに、強迫的に、もっと豊かになりたがろうとするのか。だから、欧米人からすると、日本人は非常に攻撃的に見えるのだ」っていうふうに書かれていました。

ですから、グローバリゼーションに反対っていうと、すぐに「鎖国するのか!」と極端な反応が出るのも、そういう強迫的な心理からきている気がします。

佐藤:アイデンティティの弱さですね。「日本は日本だ、偏狭上等!」と笑う度胸がない。むしろ「日本が日本のままであってはいけない!」と叫ぶのがアイデンティティになった。

中野:そのとおりです。「極東ですが何か?」って開き直ればいいのです。ですが、失われた30年において、日本人の強迫観念を刺激したのは、ガラパゴス化っていうやつです。そこで「ガラパゴスで何が悪い」って開き直ればよかったのに、それができずに「孤立したらどうしよう」と怯えてしまった。イグアナ以下です(笑)。グローバル化を追求するインテリたちが、ガラパゴス化はまずいという思想をつくって強迫するのです。

古川 雄嗣(ふるかわ ゆうじ)/教育学者、北海道教育大学旭川校准教授。1978年、三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『大人の道徳:西洋近代思想を問い直す』(東洋経済新報社、2018年)、共編著に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)がある(写真:古川雄嗣)

古川:そもそもガラパゴスって、他の地域には見られない独自の生物進化を遂げたんだから、素晴らしいことのはずですよね。多様性が大事だ、ダイバーシティだと言うなら、むしろガラパゴスこそ目指すべきものです。日本人は胸を張ってイグアナを目指せばいいんですよ(笑)。

実際、これは不思議な話で、多様性が大事だと言っているリベラルなインテリたちも、その多様性の1つとして日本の文化や伝統をとらえようとすると、とたんに「偏狭なナショナリズムだ」などと言って牙をむくんですよね。

たとえば、先ほど京都学派の話をしましたが、私がもともと勉強していた九鬼周造も、多元的な国際主義を説いています。彼の哲学は、抽象的な普遍性よりも、個別的・特殊的・具体的なものを大事にしようとするもので、戦後の研究者は総じてその点を高く評価しています。

ところが、彼が文化の個別性を強調して、各国の個別的な文化がお互いに影響し合いながら、それぞれに独自的なものとして発展していく「国際主義」の世界を目指すべきだということを説いた「日本的性格」という論文(1937年)だけは、「偏狭な文化的ナショナリズムに屈服している」などと酷評されているんです。

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