子供の栄華見ず死去「道長の母」が告げられた予言 「尾張国解文」で知られる藤原元命も同じ一族
藤原陳忠は郎党たちに「谷底にはまだまだ平茸が生えていた、取り残しも沢山あるので、残念だ、大変な損をした」ということを告げます。
そのとき、藤原陳忠は「受領(国司)たるものは、倒れた所の土をつかめと言うではないか」との言葉も残しています。谷底に転落するという危難にあいながら、それをものともせず、平茸をかき集めて、上がってくる。国司の強欲を象徴するような逸話の1つです。
ちなみに、この藤原陳忠は「藤原南家」(藤原不比等の長男・藤原武智麻呂が祖)の出身であると言われています。
我が子の栄華を見ず、この世を去った時姫
さて、話が逸れてしまいましたが、藤原元命を輩出した魚名流の生まれである、時姫は3男2女を生みます。ところが、時姫は我が子・道長の出世と栄華を見ずに、980年には亡くなったとされます。
時姫については不明なことが多いのですが、彼女の若い頃の逸話が『大鏡』に載っています。
それによると、時姫は、二条大路に出て、夕占をしていました。夕占とは、夕方に道路に立ち、そこを通る人々の話を聞いて、吉凶を占う習俗のことです。
時姫がその夕占をしていたところ、1人の白髪の老婆が近寄ってきて、時姫に告げます。「あなたは、何をしているのですか。もしかして、夕占をなさっているのですか。何事も思いどおりに進み、あなたの願い事は叶うでしょう。この二条大路よりも、長く広く、御子孫は栄えましょうぞ」と。
老婆はそう言うと、立ち去っていきました。この老婆の予言通り、時姫は兼家の妻となり、三条天皇の母となる超子、一条天皇の母となる詮子、大臣となる道隆・道兼・道長らを生むことになります。
この『大鏡』で描かれた時姫に関する話は、彼女について知りえる貴重なものではありますが、後世の創作の可能性も高いでしょう。
(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
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