子供の栄華見ず死去「道長の母」が告げられた予言 「尾張国解文」で知られる藤原元命も同じ一族
「解文」とは、下級の者が上申するときに用いた文書の様式のことです。尾張国解文も、同国の郡司や百姓らが、国司・藤原元命の暴政を朝廷に訴えて、善処を求めたものです(全31カ条から成ります)。
つまり、藤原元命は、郡司らの訴えで歴史に名を残しているので、名誉なこととは言えません。そのため、藤原元命のイメージはとても悪いのですが、最近ではその見直しも行われています。
国司の政治を訴えるということは、尾張国のみならず、他国でも行われていたこと。藤原元命は尾張守を罷免されてからも、吉田祭の責任者を務めていました。よって、藤原元命は極端な悪政を行っていたわけではない、という見解もあります。
国司の貪欲ぶりを示す、藤原陳忠の逸話
藤原元命に関しては、見直しが進んでいる一方、ほかの国司の貪欲ぶりを示す逸話は『今昔物語集』にも多く掲載されています。有名な人物では、藤原陳忠が挙げられます。藤原陳忠のエピソードを、少しご紹介しましょう。
信濃守だった藤原陳忠は、任務を務めあげ、都に帰ることになります。その途上、信濃と美濃国境の御坂峠を越えようとしたときに、藤原陳忠の馬が谷底に転落してしまうのです。
当然、藤原陳忠も馬に乗っていましたから、谷底に真っ逆さまに落ちました。藤原陳忠の郎党らは、主人の心配をしつつも、谷底に降りて、助けることもできず、困惑していました。すると、谷底から、人が叫ぶ声がしたのです。なんと、藤原陳忠は生きていました。
藤原陳忠が何を叫んでいるのか、耳を澄まして聞いてみると、どうやら「籠に縄を長くつけて、谷底に降ろせ」と言っているようです。郎党たちは、主人の言うとおりにします。今度は「引き上げよ」との藤原陳忠の声が聞こえたので、縄を引き上げました。
ところがおかしなことに、籠は軽々と上がってくるのです。藤原陳忠が籠に乗っているならば、こんなに軽いはずはありません。皆が疑問に思っているうちに、籠が上がってきました。すると、籠の中には、平茸がいっぱい入っていました。
皆が、顔を見合わせて「どうしたことか」と思っていると、また谷底から「もう一度、籠を下ろせ」との声が聞こえてきます。そこで、再び籠を谷底に降ろして、引き上げました。今度は、藤原陳忠自身が籠に乗り、上がってきました。片方の手は縄をつかみ、もう片方の手には、また平茸を掴んでいました。
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