仮設住宅でのコミュニティ形成に注力、被災者住宅政策で国は発想の転換を--立谷秀清・相馬市長に聞く震災復興の課題
福島県北部に位置する相馬市は、東日本大震災で大きな被害を被った。3月11日午後3時半過ぎ、9メートル以上の高さに達した大津波は沿岸部の集落を襲い、死者・行方不明者459人、家屋の全・半壊1613棟(ともに7月12日、福島県災害対策本部発表)に達した。
そして大地震直後の福島第一原子力発電所の爆発事故により、相馬市には45キロメートル離れた双葉郡や南相馬市から難を逃れてきた人々が押し寄せた。放射能に対する恐怖から、原発から45キロメートル離れた相馬市内も一時は燃料や食料も届かないという事態に陥った。
しかし、立谷秀清・相馬市長は「国から避難命令が出る前に、自分たちで自主避難を決めることはありえない。最悪、ご飯と梅干しがあればやっていける」と「籠城」を宣言。住民がパニックを起こさないように心を配った。
「避難所では1人の死者も出さない」を共通の目標に、市内の医療関係者と全国から駆けつけた医療スタッフが高齢者や障害者など災害弱者への救護活動に従事した。自ら民間病院を創設し、現在、全国医系市長会会長や内閣府「被災者の孤立死を防止するための有識者会議」メンバーを務める立谷市長に、震災後100日の取り組みを聞いた(インタビューは6月28日に実施)。
--まず震災直後の対応についてお聞かせください。
震災直後は情報収集と生存者の救出活動に全力を挙げたが、次の課題は救出された方が健康を害することがないように配慮するための取り組みだった。避難所では、肉体的・精神的に疲労困憊していたり、服用していた薬を流された被災者がたくさんいた。
そうした方々への対策を講じつつ、長期にわたる避難所生活から仮設住宅への入居、そして終の住処での生活へとどのようにつなげていったらよいかについて、段階的に検討していった。