古川:私は『新自由主義と脱成長をもうやめる』のなかで、今の若い子たちは完全にアトム化してしまっていて、みんなで話し合って自分たちで自分たちの社会をつくるなんて、そんな面倒くさいことだけはしたくないようだと言いましたが、ひょっとしたら変わっていくかもしれません。面倒でやりたくないと思っていたけれど、あまりにもそれがなくなると、もっとつらいということをコロナで思い知らされたという子もいました。複数の人間が寄り集まって、直接言葉を交わしながら共同で何かをやっていくということは、面倒だけどやってみると楽しいものだというふうに、もし変わっていけば、まだ希望はあるかもしれません。
若い人だけではなく大人も同じで、地域の祭りなどの行事を見ても、明らかにコロナ前よりも賑わっていて、みな生き生きとしています。私もなるべく積極的に足を運ぶようにしていますが、「やっぱりこういうのはいいなぁ」という声をよく耳にします。そういう地域の小さな共同体の公共的な活動のよさや大切さを、コロナを契機に再発見したという人は多いはずで、国や自治体がそれを本気で後押ししていけば、本当は変わっていくはずだと思うんですけどね。
「演劇性」の再発見で自由民主主義を再生させよ
佐藤:その意味では、もっと演劇に盛んになってほしいですね。演劇と映画の最大の違いは、クローズアップがないこと。つまり舞台では、いつでも役者の全身が見えるわけです。言い換えれば「言葉による意識的なコミュニケーション」と「身体や空気による無意識的なコミュニケーション」が、たえず同時に行われる。
これこそ、舞台の感動が非常に濃密なものとなりうる秘密です。役者は言葉と身体の双方で話すことにより、演じる人物の内面を丸ごと提示する。演劇とは、人間が最も深いレベルでわかり合える可能性を追求する芸術なのです。そのような相互理解が成立するとき、社会的な合意が形成されないはずはない。
座談会の第2回で紹介したジャン・ジロドゥは、「芝居がむしばまれたら、国民もむしばまれる」と喝破しました。自由民主主義が生きのびる道は、人生の演劇性を再発見することで、ボディ・ポリティックの身体性を取り戻すことにあると言えるでしょう。
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