悲劇の白虎隊は赤瓦に炎を見た?
戊辰戦争のときに、会津藩が、数え16~17歳の少年を集めて組織した白虎隊。彼らは飯盛山から会津若松城が燃えているのを見て、「自分たちの会津藩(旧幕府軍)が敗北した」と思い、集団自決をしたといわれています。
実際には会津若松城は燃えておらず、城下で起こっていた火事を勘違いしたという説があります。また、赤瓦が炎に見えたのではないかという説もあります。
実際に飯盛山から眺めると、会津若松城は見えるもののかなり小さくて、私には瓦の色までは分かりませんでした。みなさんもご自身の目で確かめてみてはいかがでしょう?
なお飯盛山には、白虎隊のお墓があります。
別名は「鶴ヶ城」です。豊臣秀吉の命令で城主になった蒲生氏郷が大改修して、東北で初の天守ができました。天守台の石垣は、このときに築かれたものが今ものこっています。7重だったともいわれる壮大な天守でしたが、江戸時代に地震で大きな被害を受けてしまいました。
その後、5重の天守が建てられて、幕末になり戊辰戦争の舞台になります。
現在の天守は、幕末の天守をもとに再建されました。天守のほか、再建された鉄門、続櫓(つづきやぐら:走長屋)、干飯櫓(ほしいいやぐら)などにも赤瓦が葺かれています。
福島県会津若松市追手町1-1
JR会津若松駅からバス(鶴ヶ城西口)下車、徒歩約7分
まだまだあります「雪対策の材」
「雪対策によって進化し、変化を遂げたお城」だと、私は考えています。
弘前城の天守や門の屋根には、もともとは一般的な土の瓦(黒い瓦)が葺(ふ)かれていましたが、雪や寒さで割れて、雨漏りを引き起こすなど問題を抱えていました。
そこで、1754(宝暦4)年から順次、寒冷地でも割れにくい銅瓦に替えていくことにしたのです。1810(文化7)年から建てられた天守にも銅瓦が葺かれました。銅瓦は木でできた瓦に銅板を貼っているため、軽く、積雪で屋根が重くなる課題にも有効です。
当時は銅色(十円玉の色)でしたが、時間が経って錆びて緑色に変化しました。
青森県弘前市下白銀町1
JR弘前駅から徒歩30分
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