名選手の「テスト入団」山あり谷あり人間ドラマ 沢村賞の西本聖や"平成の怪物"松坂大輔など
だが、当時の巨人は、桑田真澄、斎藤雅樹、槙原寛己ら投手陣が充実しており、堀内恒夫投手コーチは「序列が崩れる」と西本の復帰に反対の立場だった。
同年3月24日付の東京スポーツには「やっぱり球が遅いことに尽きる。127、8キロしか出ないようではね。コースをひとつ間違えれば、確実に(スタンドに)持っているから使えないよ」という堀内コーチの談話が掲載された。
記事を読んだ西本は「担当コーチがあそこまで言う限り、僕が1軍で投げることはないだろう」(自著「長嶋監督の20発の往復ビンタ」 小学館文庫)と、巨人への復帰が茨の道であることを改めて実感したという。
同年、長嶋巨人はリーグ優勝と日本一を達成したが、西本は1軍公式戦で登板することなく、3月30日のオープン戦、ヤクルト戦で先発し、5回を3失点で降板したのが最初で最後の“1軍登板”となった。
1軍で勝利投手になり、もう一度長嶋監督と握手したいという夢は叶わなかったが、現役20年目のベテラン右腕は「やれるだけのことはやったと思っているから、悔いはない」と自らを納得させて、ユニホームを脱いだ。
畠山はテスト入団のチームで球宴に3回出場
夏の甲子園優勝投手として期待されてプロ入りも、結果を出せず、戦力外通告を受けたあと、テスト入団したチームでオールスター出場3回と大輪の花を咲かせたのが、畠山準だ。
1982年夏の甲子園で、池田高のエース・4番として全国制覇を達成した畠山は、ドラフト1位で南海に入団。2年目の84年に5勝を挙げたが、3年目以降は、体調不良やフォーム改造失敗で伸び悩み、88年から生き残りをかけて打者として再出発した。
しかし、1軍に定着できないまま、出場16試合に終わったダイエー時代の90年オフに自由契約になった。
当時26歳。さすがに将来を考えたそうだが、「何か自分でやり残したことがあるような気がした」と現役続行を望み、ダイエーコーチ時代に指導を受けた大洋・竹之内雅史コーチに相談すると、入団テストを斡旋してくれた。
沖縄の秋季キャンプにテスト生として参加すると、みんなが気楽に声をかけてくれる明るいムードに、「こんなチームでもう1回、ナイター(1軍)でやりたい」の意を強くした。
合格が決まると、須藤豊監督は「おまえはほかの者と違うぞ。テスト入団なのだから、結果を残さなかったら、またクビだぞ」と言って、ポンと尻を叩いた。