紫式部「清少納言の作品」を"猛烈批判"その心の内 「奇をてらうばかりで中身がない」と酷評した
その後、和泉式部は「奔放」な恋の道に走ります。冷泉天皇の第三皇子・為尊親王の寵愛を受け、身分違いの恋として、親からは勘当されてしまいます。為尊親王と死別すると、今度は、為尊親王の弟・敦道親王と恋愛関係になります。
敦道親王がまだ独身ならばよかったのかもしれませんが、本妻がいました。親王と本妻との関係は、和泉式部が原因で破綻。敦道親王も早世します。
その後、和泉式部は、一条天皇の中宮・彰子に仕えることになります。そして、藤原保昌と再婚することにもなるのです。
しかし、和泉式部には悲劇も襲いました。1025年には、娘の小式部内侍が亡くなってしまいます。
晩年の和泉式部についての詳細はわかりませんが、彼女もまた女流歌人として多くの歌を残し、『和泉式部日記』も残しています。
紫式部と和泉式部は、性格の違いはありますが、歌や日記を残している2人の生涯は重なる部分もあります。
紫式部が歌の才能を認めた赤染衞門
では、この恋多き女性・和泉式部を紫式部はどう評しているのでしょう。紫式部は、「ちょっと感心できない点もある」と記しています。これはおそらく前述の親王たちとの熱愛を指すのでしょう。
一方で、和泉式部が素敵な手紙を書いたとして、評価もしています。紫式部は、和泉式部が書いた手紙を「何気ない言葉も、香気を放つ」と絶賛するのです。和歌の才も「お見事」としています。
とは言え「頭の下がる歌人だとまでは思わない」と書いているので、手紙と比べたら、歌の評価は低かったようです。
それと比べて、紫式部が歌の才を誉めているのが、赤染衛門です。赤染衛門もまた紫式部と同じ時代の女性。赤染衛門は、赤染時用の娘でした。
赤染衛門は、大江匡衡と結婚。江侍従ら子供をもうけます。赤染衛門もまた中宮彰子に仕え『赤染衛門集』と呼ばれる歌集を残しています。
赤染衛門は、夫の尾張国赴任にも同行しています。夫や子供への気遣いある女性だったようです。この赤染衛門を紫式部は歌の「権威とはされていませんが」、ふだん、何気ない機会に詠んだ歌など「頭の下がる詠みぶり」としています。
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