紫式部「清少納言の作品」を"猛烈批判"その心の内 「奇をてらうばかりで中身がない」と酷評した

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そして、ついに、紫式部のライバルとしてよく名前が上がる「あの人」の評価が書き連ねられます。

そう、清少納言です。清少納言は966年頃の生まれだと言われており、紫式部と同じ時代を生きた女性でした。

父は清原元輔。清少納言は、橘則光と結ばれ、子の則長をもうけますが、夫とはその後、離別。清少納言は、一条天皇の中宮・定子(内大臣・藤原道隆の娘。道隆の弟が道長)に仕えることになります。

清少納言と言えば随筆『枕草子』を書いたことで有名ですが、ではそんな清少納言を紫式部はどう評価しているのか。

清少納言の作品を「中身がない」と酷評

実は「清少納言ときたら、得意顔でとんでもない人だったようですね」と酷評しているのです。

「利口ぶって漢字を書き散らしているけれど、その学識の程度もまだまだ足りないことだらけ」とも書いています。

さらには「彼女のように、好んで人と違っていたいと思っている人は、最初は新鮮味があっても、その後はだんだんと見劣りし、異様になっていくものです。風流を気取った人は、寒々として風流に程遠い折にでも、感動してしまうものですから、的外れで中身のないものになってしまうのです。中身がなくなってしまった人の成れの果ては、どうしてよいものでしょうか」とまで書いているのです。

紫式部は清少納言の作品のことを、奇をてらうばかりで、中身がないと感じていたようですね。

紫式部は幼少の頃より、漢籍に親しみ、漢文を読みこなしてきたと言われていたため、それなりの自負心もあったでしょう。その自負心が、清少納言批判に転化したのではないかとも思われます(一方で、清少納言への嫉妬もあったとも言われています)。

紫式部と清少納言は、年齢や宮仕えの時期も10年近く違うため、面識はなかったとされます。

それにしても、紫式部の清少納言への口撃は、清少納言の『枕草子』を全否定したいかのようです。

清少納言の『枕草子』は、一条天皇の中宮だった亡き定子を追懐するものでした。紫式部が仕える彰子(同じく一条天皇の中宮)としては、それが我慢できないものだったのかもしれません。それが、清少納言批判につながった可能性もあります。

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