松本人志不在の「M-1グランプリ」はどうなるのか 審査員になった経緯、若手漫才師に与えた影響

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では、いかにして松本人志は“若手のカリスマ”になったのか。これは、ダウンタウンおよび松本個人の芸風と時代背景の2つの視点から考える必要がある。

漫才ブームで活躍したコンビの多くは、舞台袖から勢いよく登場し、ボケが圧倒的にしゃべるハイテンポな漫才を特徴としていた。

しかし、ブーム後に活動をスタートさせたダウンタウンはゆっくりとセンターマイクまでやってきて、無表情の松本がボソボソとしゃべり、表情豊かな浜田が高い声でキレ気味にツッコむ。テンポを落とすことで、ボケのシュールさと抑揚あるツッコミの対比が際立つ画期的な漫才だった。

1984年に「ABC漫才・落語新人コンクール」(現・ABCお笑い新人グランプリ)の漫才の部で最優秀新人賞、1987年に「日本放送演芸大賞」で最優秀ホープ賞を受賞。同年に帯番組『4時ですよーだ』(毎日放送)がスタートすると関西でアイドル的な人気を博した。

1989年の東京進出後は、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ系)や『ダウンタウンのごっつええ感じ』、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(ともにフジテレビ系)など、時代を牽引する全国区のコンビとなっていく。

浜田は歌手や役者としても活躍し、松本は自身の持論を赤裸々に記した『遺書』(朝日新聞社)が250万部を売り上げ、1996年に大喜利形式の番組『一人ごっつ』(フジテレビ系)をスタートさせるなど、“笑いの求道者”というイメージが根付いていった。

松本人志 M-1グランプリ
多くの若手芸人に影響を与えた松本人志著『遺書』(朝日新聞出版)

また漫才ブームで知名度を上げたコンビは、ビートたけし、島田紳助らボケだけが生き残るというイメージがあった。しかし、ダウンタウンはコンビで活躍できることを証明し、後続の若手に希望を持たせた。

テレビ一強の時代に求められたスター

時代的な観点から考えると、彼らは1982年に創立された芸人養成所・NSCの1期生であり師匠はいない。この点もダウンタウン以前と以降に分かれる。加えて、世は好景気でテレビ一強の時代だ。そんな中で刺激的なスターが求められるのは必然だったのかもしれない。

1990年代に入り、バブル崩壊後もバラエティーは好景気の空気を引きずっていた。毒舌、突飛な言動、体当たり企画、お色気、大掛かりなゲームやコントなど、テレビはよりインパクトのあるものを提供し、若い視聴者の多くはそれを大いに歓迎した。

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