松本人志不在の「M-1グランプリ」はどうなるのか 審査員になった経緯、若手漫才師に与えた影響

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しかし、3年足らずでブームは去り、漫才はあっという間に過去のものとなっていく。1990年代は東西を問わず若者の間でコントが支持され、漫才の人気は下降の一途をたどっていた。そんなときにスタートしたのが吉本興業の漫才プロジェクトだ。

漫才プロジェクトは、当時の吉本興業社員・谷良一をはじめとするわずかな人たちによって実施された。チラシやクリアファイルを持ってテレビ局や出版社、新聞社などを訪問し、漫才文化を広めるべく奔走する。

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そんな地道な活動の中で、かつて漫才ブームで一世を風靡した元漫才師・島田紳助から「若手の漫才コンテストをやったらどうや」との提案を受けた。「賞金1000万円」「漫才のガチンコ勝負」というアイデアが盛り込まれたコンテストは、それまでにないインパクトがあった。

谷は、これを受けて素人のカラオケ大会で人気を博した『よしもとカラオケ選手権』をイメージしたという。

「よしもとカラオケ選手権が普通のカラオケ番組と違ったのは、決勝の前に厳密な予選を何段階もつくったことだ。テープ審査から始まって地域予選、地区予選、準決勝と勝ち進むと、決勝はなんばグランド花月で豪華なセットをバックにして、きらびやかな照明を当てられて歌える。それぞれの段階でガチンコの審査を行って、負ければそこで終わりだった。」(谷良一著『M-1はじめました。』(東洋経済新報社)より)

番狂わせを起こす緊張感、また素人のカラオケ選手権と同じく、勝ち進むごとに若手の漫才がうまくなっていくだろうことも大会の魅力になる。何よりも、そのプロセスを視聴者に見せることで漫才の人気は高まっていく、と谷は考えた。

M-1審査員には若手のカリスマが必要だった

もう1つ、谷がこだわったのは審査方法だ。1999年に開始した『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)の会場の一般客100人による投票審査は、「誰にでも確実にウケる漫才が有利」になる傾向が強い。好き嫌いが分かれる漫才師のほうが後々ファンを獲得し売れていくと感じていた谷は、2002年からM-1決勝の地方審査(札幌、大阪、福岡の一般客による審査)を取りやめ、プロの審査員のみの採点システムに統一している。

この“ガチンコの審査”に欠かせなかったのが松本人志だ。前述の『M-1はじめました。』のあとがきで、島田紳助はこう書いている。

「(筆者注:M-1開催にあたって)松本人志も快く審査員を承諾してくれ、これも私には重要なことでした。演者が納得するには、松本人志がいてくれないと困るのです。当時彼は、若手のカリスマでしたから、快くオッケーしてくれ、私が引退するときもM-1頼むなの約束を守り、今もやってくれてることに感謝です」

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