教育に懐疑的な人々は、教育が繁栄をもたらすのではなく、その逆ではないかと指摘する。教育によって人が豊かになるというより、豊かで余裕のある人が教育を受けているだけではないかと。それは違うと思われるが、ただしすべての教育がよいもので、金額に見合った価値がある(負担しているのが国か個人かは別として)とは言えない。
また、たとえ教育が行われていても、必ずしも市場の要求を満たすわけではない。少し前に述べたように、中東では教育が就職や収入に結びついておらず、中国南西部の農村地帯でも同じ問題が見られる。この地域の少数民族には義務教育を受ける権利があるのだが、研究者によると、こんな山村ではたとえ大学を出ても仕事などないと言って子供を学校に行かせず、野菜を売りにいかせる親がいるという。
ある父親などは、学校を出て運よく工場で働けることになったとしても、それでは怠け癖がついて農作業に耐えられなくなるから困ると言ったそうだ。この父親が状況を正確に把握できているのかどうかは別として、環境がまったく整っていなかったり、教育後に何の機会も与えられないとしたら、教育が有益だとは言えなくなってしまう。
教育は未来の世代の希望
一方で、教育への渇望は多くの人々を行動に駆り立てる力を持っていて、教育のためなら犠牲を払ってでも行動しようと思う人が少なくない。アメリカにやってきた移民の最初の数世代は、自分たちが得られなかった教育の機会を子供たちに与えるために身を粉にして働いた。彼らは教育を社会に立て掛けられたはしごと見て、自分たちは登れなかったが、将来世代は登れるようにしようと力を尽くしたのだ。
これはアメリカだけのことではないし、移民に限ったことでもない。世界のどこであっても、子供たちは受けうる最高の教育を求めて学校に行っていて、なかには裸足の子供、空腹を我慢している子供もたくさんいる。マラウイで学校に通うナイレンダはこう言う。
「朝は食べないけどそんなのは平気なんだ。だっていつか実業家になれるって信じてるし、そうしたらたくさん食べれるようになるから」
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