なかなか、物事が思い通りに進まない長内さん。進学先の工学部ではエンジンについて学ぶことになるのだが、第1志望の学部でもなければ特に興味もない学問だ。
ただ、どちらに進んだとしても学費は払える見込みがなかったので、大学進学を機に返済義務のある奨学金(無利子)を192万円借りる。それだけではなく、大学の授業料が半額免除となったため、本来4年間で70万円かかるところが、35万円で済んだ。また、当時としては珍しい個人財団から給付型奨学金を月に2万円、4年間で48万円支給してもらった。
さらに大学生になったところで、稼ぐ楽しさにも目覚める。
「これまで受験勉強しかしてこなかったので、特にサークルにも興味が持てず、アルバイト三昧でした。家庭教師をやって10万円、夏季休暇は火災報知器の点検など、単発バイトも入れて毎月20万円稼いでいました。それを8歳下の弟の受験費用に充ててもらうために、実家に仕送りしていました。社会勉強にもなって、充実していたから、良かったと思いますよ。そうやって、稼げば稼ぐほど、父よりも稼げていることも実感できました」
ちなみに、当然ながら長内さんが実家に仕送りをしていたことからわかるが、当時学費や生活はすべて彼自身で賄っていた。それでも、毎日講義に出席(成績が悪いと奨学金が打ち切られる)しては、友人と月に1回、居酒屋で飲むことはできないので、中華食堂で山のように餃子を買っては、家賃3万円以下のアパートで酒盛りをしていたという。
大学卒業後は大手ガラスメーカーに就職。学生時代にアルバイトで通っていた勤務先に気に入られて、そのまま就職した形だ。
「半導体の製造工程で使うのガラス部分の設計をしていました。入社当初は景気もよく、株価もかなり上がって景気が良かったですね。その2年後ぐらいに、バブルが崩壊しますが……。
夏のボーナスで高校時代の分、冬のボーナスで大学時代の奨学金を返していました。一応、まだバブルの恩恵を受けられていたのと、残業代が山のように出たので生活に支障は出ませんでした。働いてばかりでお金を使うこともなかったですからね」
「なんで僕はこんなに苦労せないかんのか?」
ところが、社会人になって4年が経った頃、父親が病気で倒れてしまう。長内さんは実家に戻ることにした。
「当時、都内に赴任していたので、父のために戻るつもりは毛頭もなかったのですが、母が看病疲れで体を壊してしまったので、『これは誰か帰らないとな』と思ったんです。それに、その頃、自分のエンジニアとしての限界がわかってきていたのと、今の仕事をずっと続ける気になれなくなってきたのです。そこで、4年ぐらい学生時代に働いていた関西の部門でアルバイトをした後に、会社を辞めて地元の地方自治体に入りました」
会社員から自治体勤めになったため、給料は大きく減ってしまったが、実家から職場に通うのと、食費も田舎はそこまでかからなかったという。
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