(第62回)幻の話(その2)

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山崎光夫

 老若男女を問わず維持しておきたいのは基礎体力--還暦を過ぎて体力の低下を実感する機会の増えた私としては何とか今の体力を保持したいという気持ちが働いている。幻とまでは言わないが、何かよい方法はないものかと模索する昨今である。

 このたび、80歳代半ばで八ヶ岳級の登山を毎週のようにこなしている山好き高齢者に会った。元気ハツラツ老人である。
 高尾山などは時間が余ったのでもう1回往復したという体力の持ち主である。だが、見かけはごく普通の中肉中背の体形。山登りに体力が必要なくらいは自明の理だが、普段からどんな対策を講じているか聞いてみた。

 「膝を10回屈伸するスクワットを1日5回やればよい」
 という。

 山登りで鍛えた基礎体力があっての話ではあるが、計算上は1日50回のスクワットで十分となる。
 これぞ、幻の体力維持法ではないかと思った。
 「ただし」
 と山好き高齢者は念を押した。
 「自分の快適さにつながっているという認識があって、楽しく実行するのでなければあまり意味はない」
 強迫観念や義務感、運動効果だけを追い求める効率主義で実行したのでは継続せず、また、効果も半減するという。好きな山登りを続けるためにという快適な目的がこの山好き高齢者にはあった。

 医者の世界に、「幻の聴診器」の話がある。
 その聴診器を患者に当てて診察すればズバリと病名がわかるという代物である。
 「そんな聴診器があったらいいなという夢をよく見ます」
 若手の医者ほどそんな本音を漏らす。現役の医者が最も恐れているのは、誤診である。

 医者にも得手不得手があって、おのおの得意とする診療科目を選択して診療に当たっている。得意なら誤診も最小限におさえられる。
 外科が好きでメス一本に心血を注ぐタイプもあれば、血を見るのは苦手なので精神科を選択した、などという具合である。
 一方、治療には自信があるが、診立ては不得意。逆に、診立ては上手だが、治療となるといま一つ、という医者もいる。診断上手で的確治療ができる2つの技を併せ持っているのが名医と呼ばれるのだろう。
 医者の誰もが名医になれるものではない。
 だが、どうであれ、「幻の聴診器」を持てれば強い味方ではある。

 一時期、CTスキャンが幻の聴診器と見なされた。しかし、普及してみると、なお完璧ではない。そこで、現在、遺伝子診断が次の“幻”として登場している。
 「だが、その診断法をどれだけ使いこなせるか」
 と、ある熟練の医者は懐疑的である。
 「むしろ、勘を鍛えたほうがよい。人間の勘こそ最高級の聴診器だ」
 どんなに科学が発達しても最後は医者が頭を働かせ、目で見て、手を使って治療する。
 医者のひと声で治りそうにない病気まで治ってしまうのが患者である。幻の技を持てるか否かはひとえに医者の意識と精進にかかっている。
山崎光夫(やまざき・みつお)
昭和22年福井市生まれ。
早稲田大学卒業。放送作家、雑誌記者を経て、小説家となる。昭和60年『安楽処方箋』で小説現代新人賞を受賞。特に医学・薬学関係分野に造詣が深く、この領域をテーマに作品を発表している。
主な著書として、『ジェンナーの遺言』『日本アレルギー倶楽部』『精神外科医』『ヒポクラテスの暗号』『菌株(ペニシリン)はよみがえる』『メディカル人事室』『東京検死官 』『逆転検死官』『サムライの国』『風雲の人 小説・大隈重信青春譜』『北里柴三郎 雷と呼ばれた男 』『二つの星 横井玉子と佐藤志津』など多数。
エッセイ・ノンフィクションに『元気の達人』『病院が信じられなくなったとき読む本』『赤本の世界 民間療法のバイブル 』『日本の名薬 』『老いてますます楽し 貝原益軒の極意 』ほかがある。平成10年『藪の中の家--芥川自死の謎を解く 』で第17回新田次郎文学賞を受賞。「福井ふるさと大使」も務めている。
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