紫式部は、父の藤原為時から、文学的な素養を受け継いだらしい。
為時は文章生(もんじょうしょう)出身の学者で、貞元2(977)年3月28日に東宮(花山天皇)の御読書始において、副侍読を務めている。副侍読とは、天皇や東宮に仕えて、学問を教授する学者のことをいう。
平安中期の漢詩集『本朝麗藻』では、為時の漢詩が13首入っている。一方で為時は歌人としても活動していた。『後拾遺和歌集』『新古今和歌集』には4首が入選を果たした。
為時はどんな人だったのか。その性格をよく表すエピソードが『紫式部日記』には書かれている。
寛弘7(1010)年正月2日のことだ。藤原道長の邸宅で宴が開催されることになった。為時には音楽の才もあったため、道長は管弦のために、為時を招いたようだ。
ところが、宴が終わると、為時はさっさと席を立ち、帰ってしまった。その姿を見た道長は紫式部に「お前のお父さんはひねくれている」といってからんだのだという。
一条天皇の「文士十傑」に数えられるほどの優秀さを持ちながらも、10年も官職を得られず、出世できなかったのは、そんな為時の性格と無関係ではないだろう。
紫式部もまた、非社交的で、内向的なところがあった。文学的な素養だけではなく、性格の面でも、式部は父から影響を受けていたのかもしれない。
母は3人の子を残して亡くなった
紫式部の本名がよくわかっていないのは前述したとおりだが、それは何も特別なことではなく、当時は女性の名前を記録として残さなかった。
そのため、紫式部を生んだ母親のことも「藤原為信の女」、つまり、藤原為信の娘としかわかっていない。
為時が藤原為信の娘と結婚すると、翌年に長女が生まれて、その後は次女、長男の順で生まれている。この次女が紫式部だ。
だが、3人の子を産んだことが、体に障ったらしい。式部は数え年にして3~4歳のときに、母を亡くすことになった。妻に先立たれた為時は、別の女性と結婚することになるが、自宅に招き入れることはなかったという。
式部は姉と弟とともに母なき家庭で、漢学者の父、乳母、女房らに育てられることになる。
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