また、人々が無形経済を、ハイテク企業、特にグーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンといった、いわゆるハイテクプラットフォーム企業と関係しているものと考えがちなのも見てきた。
ある意味で、こうした関連づけは不当とは言えない。こうした巨人企業の価値は、ほとんどが彼らの保有するきわめて価値ある無形資産から生じている。だが無形投資の重要性はハイテク部門に限った話ではない。計測できる範囲で見ても、無形投資は経済のあらゆる部分に見られる。過去10年に巨大なハイテク企業が急成長したのは、その話の重要な一部ではあるが、すべてではない。
また無形投資は研究開発のちょっとした拡張でもない。コロナ禍で最も打撃を受けた産業(小売業、娯楽、ホテル、レストラン)のイノベーションは、研究開発には含まれていない。こうした部門はほとんど研究開発をしないからだ。
むしろ彼らは無形資産に投資する。研修、マーケティング、設計、ビジネスプロセスなどだ。そして研究開発をする企業でも、それを大量の他の無形資産と組み合わせて行う。例えば新しい薬品のマーケティングなどだ。
実際、研究開発の変化はそれ自体驚異的だ。これはエフライム・ベンメレク、ジャニス・エバリー、ディミトリス・パパニコラウ、ジョシュア・クリーガーが記述したとおりだ。アメリカでは、製薬企業は総研究開発支出の10分の1ほどを出している(1970年代にはこれがわずか3%だった)。さらにこうした企業の研究開発支出の3分の1は、65歳以上の人々に向けられている。
伝統がバカにされて捨てられる?
無形資産をめぐる最後の誤解は、それをきわめて商業化された、取引的で、きわめてモダニスト的なものとして見るやり方だ──いわばマルクス主義的な現金のつながりで、形あるものがすべてなくなり、伝統がバカにされて捨てられる場だ。伝統は確かにひっくり返されることもある。というのもアイデアは破壊的革新を引き起こすこともあるからだ。だが破壊は、無形資本に必ずしも伴うとは限らない。