これがロードスター誕生のスタート地点である。ちなみに「MPV」や「オートザム・キャロル」も、このプロジェクトから誕生したクルマだ。
その後、マツダは1983年に「売上高2兆円」「年間生産台数200万台」を目標に掲げるなど、攻勢に転じる。
1985年の「プラザ合意」における急激な円高により経営は悪化するものの、それでも拡大路線を堅持。1988年に「マツダ・イノベーション(MI)計画」を策定。年間販売台数277万台(うち国内80万台)という野心的な目標が設定された。3つあった国内の販売チャンネルを5つに拡大したのも、そうした中での施策の1つだ。
バブルのピークに向かっていく1980年代終盤、マツダは「マツダ」「アンフィニ(元マツダオート)」「オートラマ」「ユーノス」「オートザム」の5つの販売チャンネルを用意し、それぞれから数多くの新型車を大量に投入する戦略に出た。
その中の1つがユーノス・ロードスターであり、今のロードスターとなる。
シーマ、NSX…、高級・高性能が求められた中で
1980年代終盤の日本は、豪華で高性能なクルマが人気を集めていた。
1988年に発売された日産の高級車「シーマ」は、驚くほどのヒットを記録し、「シーマ現象」とまで言われた。ホンダからは和製スーパーカーとして初代「NSX」が1989年に発表、翌1990年に発売になった。
当時、日本車最高の280馬力を達成した日産「フェアレディZ(Z32)」も1989年に生まれていたし、「スカイラインGT-R(R32)」も同じ1989年の発売だ。
そんなバブルの喧騒の中、1989年9月にユーノス・ロードスターが誕生した。1.6リッターのエンジンの最高出力は、わずか120馬力。内装は質素そのもの。しかし、価格は174万8000円からと安かった。
豪華で高性能なものが好まれる世相をよそに、ロードスターは大きな反響を呼んだ。予約抽選のため、ディーラーの前に夜通し並ぶ列ができるほどの騒ぎとなった。これは、200万円を切る、誰もが手にできる価格設定であったことが大きいだろう。これもまた、ライトウェイトスポーツだからこその理由だ。
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