ロードスター「いらない子」と言われた車の奇跡 苦境をはねのけライトウェイト復権の立役者へ

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ちょうど1980年代は、室内を広くできる前輪駆動車(FF)が新しくて便利な車種として普及して、後輪駆動車(FR)を駆逐していった時代である。景気が上向きだったことで、「高性能で速い」ことも重視されていた。

そのため、1980年代中盤にロードスターの開発が始まったときは、マツダ社内でもさんざんに反対意見が出たという。しかも、その開発はマツダ社内ではなく、英国の開発会社に委託する予定だったというから、当時の様子がうかがえる。

V705と呼ばれるロードスターのプロトタイプ(写真:マツダ)
V705と呼ばれるロードスターのプロトタイプ(写真:マツダ)

初代(ユーノス)ロードスターの開発担当者である平井敏彦氏の最初の仕事は、社外への委託を“取りやめること”であったという。また、マツダ社内でロードスターの開発をスタートするときは、スタッフを集めるのに苦労したとも聞く。

ときはバブル全盛期に向かう1980年代後半であり、マツダ社内では「売れそうもない」「古臭い」ライトウェイトスポーツカーは、ほぼ“いらない子”扱いであったのだ。

では、なぜマツダは、そんな“いらない子”を開発しようと考えたのか。

「オフライン55プロジェクト」での挑戦

そこには、1980年代のマツダの苦しい台所事情に理由がある。端的に言えば、1980年代前半のマツダのビジネスは停滞しており、車種も限られていた。

1980年に発売された5代目「ファミリア」は大ヒットしたが、それ以外のモデルの売れ行きはいまひとつ。ファミリアの販売がピークに達した1982年は、国内販売の実に48.6%をファミリア1車種で占めていたのだ。

5代目ファミリアは「第1回・日本カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞している(写真:マツダ)
5代目ファミリアは「第1回・日本カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞している(写真:マツダ)

ライバルとなるホンダは、「シティ」や「CR-X」など、次から次へと新規車種を投入し、ヒットを続出する一方、マツダは新規車種がほとんどなく、ファミリアや「カペラ」など、主力モデルのバリエーションで市場のニーズに対応していた。

そこで1983年、マツダは「オフライン55プロジェクト」をスタートさせる。これは、商品化される可能性は五分五分でよいから、ユニークな新商品の提案を優先するというもの。そのうえで、検討や承認といった開発のプロセスを大幅に簡略化。新たな商品が生まれる素地を整えたのであった。

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