家康が重宝した勝重と長安。ベテランの家臣という点では、共通する2人だが、タイプはまるで異なる。
勝重は町人から賄賂を一切受け取らなかった。それどころか、私情を挟むことのないように、妻に仕事に口出しをすることを禁じたという。
窮屈なほど清廉潔白で公平かつ着実に業務にあたった勝重と、アイデア豊富で行動力抜群だった長安。勝重に奉行を、長安に鉱山経営を任せたことは、家康が得意とした適材適所な人事配置だったといえるだろう。
金銀山の経営で結果を残した長安は、その後も、大和代官、石見銀山検分役、佐渡金山接収役、甲斐奉行、石見奉行、美濃代官と順調に出世を果たす。余人に代えがたい人材だったのだろう。中風にかかったときは、心配した家康から烏犀円を与えられている。
烏犀円とは、健康オタクだった家康が自ら調合し服用した薬だ。作り方は家康しか知らず、めったに人にあげることはなかった。それだけ、長安を評価していたということだろう。
長安の死後に一族は厳しく処罰される
だが、慶長18(1613)年、69歳で長安が没すると状況は一変する。
亡くなってから数日後に、家康の命令によって葬儀は中止され、長安の陣屋を捜索。その結果、金銀を隠匿し、政府転覆を計画していたとされ、多額の蓄財はすべて没収されてしまう。
それどころか、近親者や親しい者たちは、知行を削られたり、改易させられたりしている。なかには、切腹を命じられた者までいた。
疑惑の真相は明らかになっていないが、長安の奔放ぶりが目に余ったのだろう。
なにしろ、長安は佐渡、石見や諸国の金銀山に出向く際は、豪華な船2隻に250人もの従者を従えた。飲めや歌えやと大騒ぎしながら、好き勝手に振舞ったという。
きちんと働いたものはそれだけ報われるが、不正があれば、どれだけ密な人間関係があろうとも、容赦なく裁く――。そんな姿勢をみなに打ち出すことも、家康が長安に厳罰を処した目的だったのかもしれない。
長安の死去した翌年、慶長19(1614年)に、家康は大坂冬の陣によって、豊臣家と対峙する。豊臣公儀と徳川公儀が併存する二重公儀体制の時代が、いよいよ打破されようとしていた。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉~〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
馬場憲一、村上直『論集代官頭大久保長安の研究』 (揺籃社)
川上隆志『江戸の金山奉行 大久保長安の謎』(現代書館)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら