月日が流れ、いよいよ若宮が参内(さんだい)することになった。成長したその姿は、今までにも増して気高く、いよいよこの世のものとは思えないうつくしさである。そのあまりのうつくしさに、帝(みかど)は禍々(まがまが)しさすら感じ、何か不吉なことが起きなければよいが、と不安を覚えるほどだった。
若宮が四歳となった明くる年、東宮(とうぐう、皇太子)を決定することとなった。第一皇子を飛びこえて、この若宮を太子に立てたいと帝は考えたが、若宮には後ろ盾もなく、世間も承知しそうにない。そんな中で無理強いをすれば、かえって若宮を苦境に立たせてしまうことになりかねない。そう考えなおした帝は、若宮の立太子を願ったことなどおくびにも出さないようにした。
「あれほど若宮をかわいがっていらしたのに、やはり決まりを重視なさるのだ」と世間の人たちは噂(うわさ)し合い、また弘徽殿女御(こきでんのにょうご)もひと安心したのだった。
始まった宮中での暮らし
若宮の祖母君は、悲しみに打ちひしがれたまま、立ちなおることもできず、いっそ娘のところに行ってしまいたいと願っていたからか、とうとう息を引き取ってしまった。帝はその知らせを聞いて、またいっそう深い悲しみを覚えるのだった。六歳になった若宮は、もうものごとの道理をわかっていて、この時は祖母の死をきちんと理解し、祖母を恋い慕って泣いている。祖母君も、だいじに育ててきた若宮をこの世に残していく未練を、亡くなる際まで幾度も幾度もくり返し嘆いていたという。
若宮はすっかり宮中で暮らすようになった。七歳になったので、読書始(ふみはじめ)の儀を執り行い、学習をはじめてみると、世に類いないほど聡明で賢いことがわかってきて、またしても帝は不吉な思いにとらわれる。
「今となっては、だれも若宮を憎んだりはしないだろう。こんなに早く母君を亡くしたかわいそうな身の上なのだから、どうかかわいがっておくれ」
と帝は、弘徽殿を訪れる際も若宮をいっしょに連れていき、そのまま御簾(みす)の中にも入れてしまう。たとえどんなに猛々(たけだけ)しい武士や仇敵(あだがたき)であったとしても、ひと目見たらほほえまずにはいられない、そのくらい若宮はかわいらしく、かの弘徽殿女御でも邪険にすることができない。
弘徽殿女御には二人の皇女(こうじょ)がいたが、若宮のうつくしさとは比べものにならなかった。そのほかの女御(にょうご)や更衣(こうい)たちも、まだ幼子の若宮を前に、顔を隠すこともなく相手をするが、こんなにも幼いうちから気品に満ちて、こちらがかえって気後れするほどなので、本当におもしろい、遊び相手のしがいのあるお子だとだれもが思う。ひと通りの学問ばかりでなく、琴や笛の演奏なども、宮中の人を驚かせるほど達者、そればかりか、ひとつひとつ数え上げたらキリがないほど何もかもが人並み以上にすばらしく、少々気味の悪いほどだった。
次の話を読む:亡き人にうりふたつ「藤壺」がもたらす宮中の変化
*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです
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