「まことに畏れ多いお言葉をどのようにいただいたらよろしいのか、わかりません。このようなありがたいお言葉をいただきましても、私の心の闇は晴れず、ただ乱れるばかりでございます。
荒き風ふせぎしかげの枯れしより小萩(こはぎ)がうへぞ静心(しづこころ)なき
(荒々しい風を防いでいた木が枯れてしまい、その木が守っていた小萩、若宮が心配で、気が休まりません)」
と、取り乱したような歌も添えられているが、心を静めることもできないのだろうと帝は大目に見る。こんなふうに取り乱した姿を自分は見せまいと、帝は気を引き締めるけれど、どうしても平静ではいられない。考えまいとしても、女をはじめて見た時のことがあれこれと自然に浮かんできてしまう。生きている時は、かたときも離れることができなかったのに、今こうしてひとりでいても月日が過ぎていくことが、信じられない思いである。
どんな花の色にも
「故大納言の遺言を守り、娘には宮仕えをさせようという志をしっかりと持ち続けてくれたお礼に、その甲斐(かい)あったとよろこばせたかったものを、今となってはもうどうしようもない」と、母君のことが不憫に思えて仕方がない。「桐壺は亡くなったけれども、若宮が成長したら、それなりの身分におさまることもあるだろう。どうか長生きして、孫の立身出世を見届けてほしいものだ」と帝は言う。
命婦は、母君に託された贈り物を渡す。亡くなった楊貴妃(ようきひ)のたましいを尋ね出した幻術師が、その証拠のかんざしを持ち帰る長恨歌の話を思い出し、これもまた亡き人をさがしあててきた証拠の品だったらどんなにいいだろう、と思うけれども、致し方ないことである。
尋(たづ)ねゆく幻(まぼろし)もがなつてにても魂(たま)のありかをそこと知るべく
(亡き桐壺の魂をさがしにいく幻術師はいないものだろうか。そうすれば、人づてにでもそのたましいのありかを知ることができるのに)
どれほどすぐれた絵描きが描こうとも、筆力には限りがあるのだから、楊貴妃の絵には生き生きとしたうつくしさは乏しい。太液池(たいえきち)のほとりに咲く蓮(はす)の花みたいにうつくしい顔立ち、未央宮(びおうきゅう)の庭の柳のようにしなやかな体つきで描かれた楊貴妃を眺め、その唐風(からふう)の装いも、さぞやすばらしかっただろうと帝は思う。そう思うにつけ、思いやり深くかわいらしかった女のことを思い出してしまい、それはどんな花の色にもどんな鳥の声にもたとえることができない。朝夕をともにして、比翼(ひよく)の鳥になろう、連理の枝になろう、生きている限り二人はいっしょだと約束したのに、その願いも断ち切るいのちのはかなさが、どうしようもなく恨めしく思える。
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