成長した若宮、うつくしいが故に漂う「不気味さ」 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・桐壺④

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風の音を聞いても虫の音を聞いても、帝はひたすら悲しみを覚えるのだが、弘徽殿女御(こきでんのにょうご)は帝の寝室に参上することもいっこうになく、月のうつくしいその晩に、夜更けまで管絃の演奏を楽しんでいる。帝はおもしろく思わず、その音を不快な気持ちで聞いた。悲しみに暮れる帝の様子をずっと見ている殿上人(てんじょうびと)や女房たちは、漏れ聞こえてくる演奏の音を、じつにはらはらして聞いた。弘徽殿女御は我の強い、きつい性格の女で、桐壺の死によせる帝の悲しみなどまるで気遣うことなく、平気でそのようなこともできるのだろう。月も沈んだ。

「桐壺」の人物系図

食事にも手をつけず

雲のうへも涙にくるる秋の月いかですむらむ浅茅生(あさぢふ)の宿
(雲の上の宮中ですら、涙でくもって秋の月はよく見えない。ましてあの草深い宿では、澄んで見えるはずもない。どんなふうに住み暮らしているのか)

若宮と祖母君の暮らす浅茅生(あさじう)の里を思っては、帝は灯火(とうか)を幾度も搔き立てて、油の尽きるまでまんじりともせず起きている。警備に当たる右近衛府(うこんえふ)の宿直(とのい)が、交代の折に自分の名を告げる声が響いてくる。もう丑(うし)の刻(午前一時頃)となってしまったのだろう。人目を気にして帝は寝室に向かうが、まどろむこともできない。翌朝起きる段になっても、女君がいた頃は夜が明けるのにも気づかずに共寝をしていたのに、夢でさえ逢(あ)えなくなろうとは……と悲しみに暮れ、今では朝の政務を怠ることもあるようだ。食事にも手をつけず、朝餉(あさがれい)に、ほんのかたちばかり箸をつけるくらいである。清涼殿(せいりょうでん)での正式な昼食は、まるで関係ないもののように見向きもしないので、給仕する者たちもみな、その言いようのない悲しみに触れて深いため息をついてしまう。帝の近くに仕える者は、男も女もみな、「本当に困ったことです」とため息交じりに言い合うばかりである。

「前世からよほど深い縁がおありになったのだろう。あれだけ多くの人に非難されても憎まれてもまるで気にせず、彼女のこととなると冷静なご判断もおできにならなくなって……。亡くなられた今は今で、こんなふうに政務を投げうたれてしまうのは、この先が思いやられます」と、またしても楊貴妃を愛したがために国を危機に陥れた異国の王を持ち出して、人々はささやくのだった。

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