「亡き桐壺」に囚われる帝と母、それぞれの長い夜 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・桐壺③

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「子を亡くした親の心の闇はたえがたく、ほんの少しでも晴らせるくらいにお話ししたく思います。このような公のお使いだけではなく、またどうか内々でお気軽にいらしてください。この数年、晴れがましい折々にお立ち寄りいただきましたのに、こんなふうに悲しいお言づけを届けていただくのは、返す返すもこの寿命の長さがつらく思われます。亡き娘には、生まれた時から望みをかけておりました。娘の父親であった大納言も、息を引き取る直前まで『この子を入内(じゅだい)させるという私たちの願いを、どうかかなえておくれ。父親の私が亡くなっても、弱々しく志を捨てるのではないぞ』とくり返し言いさとしていました。しっかりした後ろ盾となってくださる方もいないままに、宮仕えなどしないほうがいいと心配してはいましたが、亡夫の遺言に背いてはならないという一心で、あの子を宮仕えに出させていただきました。それが思いもよらず深い愛情を掛けていただきまして、それだけでも身に余ることですので、ほかの方々から人並みにも扱ってもらえない恥も忍んでは宮仕えを続けていたようです。それでもその方々からの妬みを一身に受けて、心を苦しめることもだんだん増えて参りましたところに、ついにはあんな有様でこの世からいなくなってしまいました。ですから畏れ多いはずの帝のお心も、かえって恨めしく思えてしまうのです。これも、子を失ったどうしようもない親心の闇でございます」

と、その後はもう言葉もなく母君はむせび泣く。

「帝も同じことをお考えで……。『自分の心ながら、周囲が驚くほど深く愛してしまったのは、思えば、長く続くはずのない仲だったということなのだね。今となってはなんとせつない縁だろう。少しでも人の心を傷つけまいとしてきたのに、この人をこんなに愛してしまったがために、受けずともいい人の恨みをたくさん受けることになってしまった。そのあげく、こうしてひとり遺されて、気持ちの整理もつかず、ますますみっともない愚か者になりはてた。こんな私たちは、いったいどんな前世の宿縁だったのかが知りたい』と、幾度もおっしゃっては、涙に暮れていらっしゃいます」と命婦は語り、話は尽きることがない。泣く泣く、「夜も更けました。今夜のうちに戻って、ご返事申し上げなければなりませんので」と急いで帰ろうとする。

長い夜も足りないほど

月は沈みかけて、空は一面さえざえと澄み切っている。風は涼しく、草むらから立ち上る虫の音が、涙を誘うかのように響く。命婦はなかなか立ち去りがたく、車に乗りこめないでいる。

源氏物語 1 (河出文庫 か 10-6)
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鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜あかずふる涙かな
(鈴虫のように声の限りに泣き尽くしても、長い夜も足りないほど、泣いても泣いても涙がこぼれます)

命婦は車に乗りこむこともできない。

「いとどしく虫の音(ね)しげき浅茅生(あさぢふ)に露おき添ふる雲の上人(うへびと)
(虫がしきりに鳴き、私も悲しみに泣く、この草深いわび住まいに、なおもまた、あらたな涙を添えてくださる雲の上のお人よ)

あなたさまのせいだと申し上げてしまいそうです」

と、母君は取り次ぎの女房に伝える。

風情(ふぜい)ある贈り物をしなければならないような場合でもないので、ただ形見として、こんなこともあろうかと残しておいた娘の装束一式と、髪上(くしあ)げの道具のようなものを添えて命婦に託す。

年若い女房たちは、もちろん未(いま)だ悲しみに沈んでいたが、これまでのはなやかな宮中の暮らしに慣れてしまっていて、この里の住まいがどうしてもさみしく感じられて仕方がない。また、帝の様子も心配で、命婦の言葉通り、早く若宮を宮中にお連れすべきだと勧めている。けれども、母君は、娘に先立たれた逆縁の、不吉な自分が付き添って参内するのも世間体が悪いだろうし、かといって、若宮と離れて暮らすのも気掛かりだし……と、はっきりと心を決められないままでいる。

次の話を読む:成長した若宮、うつくしいが故に漂う「不気味さ」

*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです

角田 光代 小説家

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かくた みつよ / Kakuta Mitsuyo

1967年生まれ。90年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。著書に『対岸の彼女』(直木賞)、『八日目の蝉』(中央公論文芸賞)など。『源氏物語』の現代語訳で読売文学賞受賞。

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