今から122年前、この地に日本経済の基盤が築かれた。
明治政府がドイツから最新技術を取り入れ、先に独自技術で製鉄を行っていた岩手県釜石から技術者らを招き、官営八幡製鉄所の第1高炉に1901年2月、火が入った。
鉄鉱石や石炭の質がヨーロッパとは異なることなどからさまざまなトラブルが起こり、2度の高炉休止を余儀なくされるも1904年7月に再開。第1次世界大戦まで、銑鉄と銅材の国内シェアで75~90%を誇った。※内閣官房 産業遺産の世界遺産登録推進室「明治日本の産業革命遺産」を参考に筆者作成
ここは、現在の北九州市八幡東区東田(ひがしだ)。東田第1高炉跡を背景に、タカミヤ環境ミュージアムがある。周辺には、日本製鉄の事業所から約1.2kmの水素パイプラインが引かれており、水素に係わるさまざまな実証試験が行われてきた。
コロナ禍を経て、国がGX(グリーントランスフォーメーション)を掲げる中、水素を含めた北九州市における環境施策はどう変化しているのか。同市の各地を巡りながら、変わりゆく北九州市の姿を追った。
大気・水質汚染に悩まされた高度経済成長期
まずは、北九州市における環境行政の歩みを振り返ってみたい。
1963年2月、門司市、小倉市、若松市、八幡市、そして戸畑市の5市が合併して誕生した北九州市は、1960年代から1970年代にかけて、高度経済成長の反動として大気汚染と水質汚染に悩まされた。
煤煙による空は当時「七色の煙」と呼ばれ、街の繁栄と環境とのバランスが大きく崩れていた。そうした状況を打破するため、北九州市は「北九州市公害防止条例」等を制定する。
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