柴田理恵さん「東京-富山」遠距離介護を決めた胸中 「介護をするうえで心がけている」大切なこと

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――その後、お母さんはどうなりましたか。

1週間後に病院を訪ねたら、意識がはっきりしていたんです。「な~に、まだ死にゃあしないよ」と、いつもの母の口調が聞こえたのですごくホッとしました。

ただ、身体はかなり弱っていて寝たきり状態に。「要介護4」との認定を受けました。これは介護なしに日常生活を送れない重度の状態です。

入院する前は最も軽い「要支援1」だったので、これからどうやって母の生活を支えていけばいいのか、悩みました。

「東京の家に引き取って一緒に暮らしたほうがいいのでは?」とも考えましたが、すぐに「これは違うな」と思い直して。というのも、父が他界した後、「一緒に東京で暮らさない?」と母に聞いたら、「絶対に嫌だ」とキッパリ断られたんですね。

そのとき母は強い言葉でこう言いました。

「私は生まれ育った富山を離れたくない。ここには自分の大事な友人もたくさんいるし、まだまだやりたいことだってある。それに自分の人生は自分のもので、あんたの人生はあんたのもの。だから、子どもの世話にはなるつもりはない」

母の大事なものはすべて富山にある。ならば母がこの土地で暮らし続けられるように、私は遠距離介護という形でサポートしていこうと決めました。

仕事に情熱を注ぐ母が大好きだった

――お母さんは、すごく自立されている方なんですね。

子ども時代は、めちゃめちゃ怖かったですけどね(笑)。昔から「子どもと親は別物」という考えが強くて、「たとえ親子であっても依存し合うのは好きじゃない」とよく言っていました。

普通は、子どもが大学に行って離れて暮らすようになったら、親は心配して食べ物とか送ってくれることが多いじゃないですか。うち、1回も送ってくれたことがないんですよ(笑)。

学生時代に、「お母さん、お菓子とかカップラーメンとか送ってくれないの?」と聞いたら、「あんたの好きなお菓子なんて知らんもん。ラーメンなんて自分で買えるだろ」とピシャリ。

親子関係はさっぱりしていたけれど、心根があったかくて、長年教師という仕事に情熱を注いできた母が大好きでした。

だからこそ、私も自分の仕事に全力を注ぎたいと思うようになりましたし、母の介護が始まっても、仕事を手放さずに続けていこうと決心できたのだと思います。

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