リンは、ハイリスクスポーツの参加者に「エリート主義的志向」を見い出し、自分たちのスキルを生まれつきのもの、本能的なものだと考えていることを指摘したが、これは登山に限らず、虚栄心や承認欲求の問題はスポーツ全般にみられるものともいえる。技量や記録などによるレベル分けによるヒエラルキーへの固執が典型だ。
スリルを娯楽として享受する心理
根本的な課題として残るのは、エッジワーク的なものに対する自覚のなさと、エッジワーク的なものの否認による弊害である。
人々は、プロテクティブ・フレームに守られていると思える場合、スリルを娯楽として享受する心理傾向があるが、それは客観的なものではないという真理に鈍感なままエッジワーク的なものにのめり込む懸念だ。
否認に関しては、アプターの見解が参考になる。「社会は、個人的な危険を冒したいと思っている人たちの邪魔をするのではなく、助けたほうがいい」「ただし、ほかの人たちに害を与えたり、社会自体を危険にさらしたりしてはいけない」と主張しているからだ(前掲書)。この結論を踏まえると、能力的に無謀な登山は、「他者を危険に巻き込む」という意味において非常に微妙なものとなる。
しかし、エッジワーク的なものを取り締まることは賢明ではないだろう。規制したところで、おそらくは別の形、いびつな方法でエッジワーク的なものが開発され、流行する可能性が高いからだ。
そうであるならば、わたしたちは、自らの心性を直視したうえで、エッジワーク的な欲求を満たすことができる安全な遊び場という、酩酊できるノンアルコールビールとでも表現すべき矛盾を追求すべきなのかもしれない。だが、そのようなことが実際に可能かどうかに関係なく、本物の危険こそが現実を耐え得るものにするスパイスだと知っている人々は、紛い物を通り過ぎていくのだろう。
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