もちろん、登山の難易度にもよるが、登山者が未熟であれば、体力や天候など多様な変化の悪影響を受けやすく、場所やその状態によって、ゾーンは絶えず安全と危険を上下しており、外傷のリスクは瞬時に訪れる。だが、内側から湧き起こる充実感は、それらすべてを覆い隠す麻薬として作用する恐れがあるのだ。
そして、偶然にせよ事故が起こらなかったことが容易に成功体験に転化しやすく、さらなる危険ゾーンへの挑戦を後押ししかねない。前掲書のリンの言葉を借りるならば、さまざまな困難を自力で切り抜けられたことによる高揚感が生じ、「自分自身の能力に対する顕著な感覚」が芽生えるからだ。このようなコントロール感は強力な魔力となる。
人はなぜ無謀な登山に挑むのか
その場合、「解放性」と「自己啓発性」は、フレームを狂わせる背景要因にもなり得る。通常の社会生活では体験できない自己への感覚の集中と社会システムからの離脱は、身体の再発見という健康志向や、環境と一体化する自然志向の高まりと相まって、過剰な刺激や没入感の追求を促進するかもしれない。予期できぬ脅威や心理的なプレッシャーを適切に管理できるという信念が強化され、ますますハイリスクな行為を助長するかもしれない。
実のところ、エッジワークにおける逸脱行動と自己効力感の抗いがたい魅力は、怪我や死のリスクがあるスポーツだけにとどまらない。エッジワークという言葉は、ジャーナリストで作家のハンター・S・トンプソンによる造語で、生と死、正気と狂気といった境界を指している。これが犯罪や金融、スポーツなどにまで用いられるようになった経緯がある。
わたしたちは表面上、リスクを避けているように見えて、不思議と進んでリスクを取る行動に熱中することがある。もちろん、それが楽しいからであり、興奮がもたらされるからだ。アプターは、その例として落書きなどの「ヴァンダリズム(公共物破壊)」、危害を受ける人々が相次ぐ「祭り」、万引きなどを挙げる(前掲書)。
とりわけ多様なストレスや不安にさらされ、仕事や家庭における無力感や、漠然とした孤独感などを抱えている人々にとって、エッジワーク的な快楽は、自律性を取り戻す代替的な手段として有望なものに思えてくるだろう。新たなフィールドに飛び込むことで、新たな価値観、新たなアイデンティティを得る側面を併せ持っているからだ。
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