城崎温泉、攻めの「全旅館一斉休業」知られざる凄さ まち全体で足並みをそろえてコロナ禍に対応

✎ 1 ✎ 2 ✎ 3
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

例えば、参考にしている基準は海外で展開するグローバルホテルに準拠しているのだが、これはインバウンド観光復活を意識したメッセージだ。

まずは城崎温泉からスタートしたが、もともと全市への適用も考慮していたため、すぐに豊岡市の感染症対策ガイドラインとして出石、竹野、日高、但東といった全市でも適用された(久保、2020)。

なぜ、まち全体で一体感のある取り組みが実現できたのか。ヒントになる言葉が城崎温泉観光協会の高宮会長(2020年当時)のコメントにある。

「本来、すべての旅館が一斉に休業するのは簡単なことではない。しかし城崎温泉は小さな旅館が集まった街で、昔から『まち全体で1軒の旅館』という考え方を持って共存共栄を図ってきた。だからこそ、一斉での休業が決断できたのではないか」(ダイヤモンド・オンライン、2020)

「共存共栄」という発想である。

伝統的な「外湯」をめぐる内部対立を経て

実は、この考えは城崎のみならず、豊岡の地域経営哲学ともいえる概念として語られている。この経営哲学は何の問題もなく引き継がれたものではない。

むしろ、何度もまちとしては試される拮抗状態が続くなか、都度、それぞれの時代に改めて価値として認められ、言語化され、引き継がれてきたものだ。その最も大きな契機は、1925(大正14)年の北但大震災における被災からの復興と内湯訴訟だと言われる。

北但大震災からの復興では、防災上の観点からいえば、城崎であれば、すべての旅館をコンクリートなどに建て替える方が合理的でもあった。外湯という伝統から内湯に変更することもできただろう。

だが、城崎は木造建ての景観という自分たちの歴史を選択した。外湯もまったく同じ場所に復興させている。このことは、組合のWEBサイトのみならず、各旅館が更新するブログにも城崎の共存共栄の象徴として語られている。

次ページ内部対立を経て城崎温泉が確立した「共存共栄」
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事