「快適な暮らし」捨て紛争地で支援活動を行う理由 右足失った男性が口にした「You are our hope」

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外資系IT企業の営業マンとして3年目。ようやく大きな仕事を任せてもらえるようになった時期だったが、それを捨ててでもやりたいことがあった。それが、「世界の現実をテレビや新聞ではなく、自分の目で見てみたい」「世界で最も弱い立場にいる人たちに、自分の仕事のスキルを通じて貢献したい」だった。

国境なき医師団の活動地で仕事をするには英語のスキルは必須だ。だが、私は当時まったく話せず、一から勉強し直す日々が続いた。この間、国境なき医師団の面接には2回トライしたものの、いずれも不合格だった。

ようやくの思いで面接をパスし、念願叶って国境なき医師団に入ったある日、事務局から連絡を受けた。

そして2カ月目の2005年7月、初めての派遣地となる北東アフリカにあるスーダン共和国に降り立った。ここは今年4月に国軍と準軍事組織が衝突し、日本人も国外退避したことで注目が集まった国だ。

スーダン
最初の派遣地スーダンにて。村田慎二郎は2012年、派遣国の全プロジェクトを指揮する「活動責任者」に日本人で初めて任命され、シリアや南スーダン、イエメンなどで援助活動に関する国との交渉などに従事。2020年8月より日本の事務局長(写真:国境なき医師団提供)

組織的な暴力から逃れる女性や子ども

派遣されたダルフール地方は、スーダン政府と反政府勢力の紛争が発端で多くの市民が犠牲となり、当時の国連のアナン事務総長が「今世紀最悪の人道危機」と呼んだところだった。飛行機なら日本から2日足らずで行ける国だったが、そこはまるで違う惑星に来たかのようだった。

訪れた国内避難民キャンプは外気温45℃。車にエアコンはなく、足元はフラフラ。待合室は患者であふれ、入院病棟は満床。子どもたちの泣き声が聞こえ、医療現場で使用する消毒液と、たくさんの入り乱れる人びとの匂いにめまいがして、五感に飛び込んでくるすべてに圧倒された。

紛争で住む場所を追われた国内避難民といわれる人びとは、当時180万人ほどいた。スーダン政府軍とアラブ系住民による非アラブ系住民への組織的攻撃による暴力から逃れるため、多くの女性や子どもが着の身着のまま安全なところを求め、避難民キャンプに来ていた。

国境なき医師団は、そんな人たちに無償で医療を提供していた。

医療者でもなんでもない私が任されたのは、サプライ・ロジスティシャン。援助活動に必要なすべての物資の調達や管理を担う仕事だった。医師が100人いても、薬がなければ患者さんに医療を提供できない。まさに縁の下の力持ちの役割だった。

現場では医師や看護師には医療だけに専念してもらえるよう、財務や人事を担うアドミニストレーターといった「ヒト・モノ・カネ」の部分を引き受けるスタッフがたくさんいた。

当時、現地にいた海外派遣スタッフは約40人。国籍や文化はバラバラだったが、国境なき医師団の旗の下、現地採用スタッフとともにチーム一丸となって活動していた。

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