日本人科学者が一変させた「物質の正体」の知識 長岡半太郎が「土星モデル」を提唱できた訳

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しかし長岡の考え方は、日本特有のある事情からも影響を受けている。ドイツに発つ少し前に長岡は震災予防調査会から、1891年の濃尾地震を調査する田中舘に手を貸してほしいと声をかけられた。

そこで6か月にわたり田中舘に同行して日本中を巡り、山を登ったり下ったりしながら、地震が地磁気におよぼした影響を精確に測定した。田中舘の最終報告書にも共著者として名前が挙げられている。

このように日本で地震研究に携わったことが、原子の物理に関する長岡の考え方に根本的な影響を与えたのだ。1905年初頭に長岡は別の論文の中で、電磁波が原子核と相互作用すると何が起こるのかを突き止めた。

注目すべきことに、その効果を説明する上では地震学を引き合いに出している。いわく、原子の中心にある正に帯電した大きな粒子は「山や山脈」のようなものである。そのため、この原子の中心を通過すると電磁波は散乱し、その様子は地震の際に地震波が山を貫くときとそっくりであると長岡は論じた。

科学はグローバルな文化交流から生まれる

1905年から1906年には、「地震波の散乱」と「光の散乱」を直接比較した2本の論文も発表している。このように長岡もまた、1900年頃に異なる文化、異なる科学分野が合流して、グローバルな文化交流から科学が生まれたことを物語る好例といえる。

長岡は物理学と化学の考え方を組み合わせ、ヨーロッパと日本両方での経験に頼った。そうすることで、近代物理学におけるもっとも重要なブレークスルーの一つを成し遂げたのだ。

今日では、原子の構造を突き止めたのはイギリスの物理学者アーネスト・ラザフォードであるとされることが多い。ヨーロッパ以外の科学者が近代科学の歴史から消されていることを示すこの上ない実例である。

ラザフォードが原子の構造に関する有名な論文を発表したのは1911年、長岡がまったく同じテーマに関する一連の論文を発表してからかなりのちのことだ。

それだけでなく、ラザフォード本人も長岡の研究についてよく知っていたし、そのことを隠してもいない。それどころか2人は顔を合わせておのおののアイデアについて議論している。1910年9月、ラザフォードはマンチェスター大学の自分の研究室を長岡に喜んで見せて回り、原子の構造を裏付けるための実験を進めていると説明した。

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