日本人科学者が一変させた「物質の正体」の知識 長岡半太郎が「土星モデル」を提唱できた訳

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1911年2月には長岡に手紙で、近く発表する論文について次のように知らせた。「私の仮定した原子の構造が、あなたが何年か前に論文で提唱したものに似ていることをお伝えします」。

当然ながら1911年に自身の結果を発表した論文でも、長岡の1904年の論文を参考文献として挙げている。その脚注には、またもや近代科学の隠された歴史が垣間見える。イギリスだけでも日本だけでもなく、両者が組み合わさった結果生み出された歴史だ。

日本は19世紀末の科学の世界で大きな一翼を担っていた。この時期の日本人科学者はほぼ例外なくヨーロッパでしばらく学び、うち多くの人が第一次世界大戦勃発直前まで国際学会に出席しつづけた。しかし、国際主義とナショナリズムはたいてい並行して進んでいた。

科学とナショナリズム、戦争の関係性は、日本でとりわけ強く、1868年の明治維新後に研鑽を積んだ科学者の大部分は武家の出身だった。彼ら武家出身の科学者は、軍事力に対する従来の信念と、近代科学技術に対する新たな価値観とを組み合わせた。

「国を豊かにして軍事力を高めるには、物理学と化学を完璧なものにしなければならない」と、元武士のある東京帝国大学教官は記している。

日本の第一次世界大戦への参戦

ほかの国と同じく、国際主義とナショナリズムの繊細なバランスがいつまでも続くことはなかった。1914年8月、日本は連合国の側に付いて第一次世界大戦に参戦し、東アジアや太平洋一帯のドイツ植民地の多くを次々に奪取した。

一部の日本人科学者、とりわけドイツで学んだ人たちは心乱されたものの、自らの役割は果たした。

田中舘愛橘は日本軍に航空機の設計に関する助言をおこない、明治の日本で飛び抜けた成功を収めた工業化学者である高峰譲吉は、軍需化学物質の製造を専門とする工業研究所の設立に助力した。

オスマン帝国やロシア帝国の場合と違い、第一次世界大戦で日本が政治危機に陥ることはなかった。逆に第一次世界大戦後に日本は、東アジアで大きな科学力、軍事力、産業力を持つこととなる。

(翻訳:水谷淳)

ジェイムズ・ポスケット ウォーリック大学准教授

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James Posckett

ウォーリック大学准教授。科学技術史が専門。ケンブリッジ大学で博士号を取得し、ダーウィン・カレッジのエイドリアン・リサーチ・フェローシップを取得した。『ガーディアン』『ネイチャー』『BBCヒストリーマガジン』などに寄稿し、インドの天文台からオーストラリアの自然史博物館まで、世界各地を調査のために訪れている。2013年にはBBC新世代思想家賞の最終選考に残り、2012年には英国科学作家協会による最優秀新人賞を受賞している。著書に学術書『Materials of the Mind』がある。

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