そんな父親に背中を押されて長岡は1882年、東京大学に入学して物理学を学びはじめた。そこから長岡は揺るぎない経歴を歩んだ。
1893年から1896年までドイツとオーストリアで学び、ヨーロッパを代表する何人もの物理学者と出会った。そしてこの間に研究者として大活躍した。
この時期の物理学が国際的性格を帯びていたとおり、長岡は科学論文を英語・フランス語・ドイツ語・日本語で書いた。
しかし、ヨーロッパで進められている科学研究をただなぞるだけでは満足できなかった。近世と同じく、日本が科学研究の世界を牽引できることを証明したかったのだ。
「他人の研究の後を追ったり、外国から学問を持ち込むのに人生を賭けたりするつもりはなかった」と語っている。
さらに内輪では、物理学を研究する動機の裏には競争的なナショナリズムがあると打ち明けていた。ある友人には手紙で、「あらゆる面でヨーロッパがこれほど秀でている理由など何一つない」と伝えている。その友人とは誰あろう、物理学者の田中舘愛橘である。
長岡が論じた原子の構造
1896年に東京帝国大学に戻ってきてまもなく、長岡は教授に昇進した。そして日本の地で、自身にとってもっとも重要なブレークスルーを成し遂げる。1903年12月5日に東京数学物理学会で1本の論文を発表し、その中で「化学原子の実際の構造」を論じたのだ。
何百年ものあいだ科学者は物質の正体について頭をひねっていた。19世紀には、その基本構造をめぐって激しい論争が繰り広げられた。
その論争に長岡がついに決着をつけて、原子物理学の分野を切り拓いた。一連の複雑な計算に基づいて、原子は負に帯電した電子の群れが「正に帯電した大きな粒子」のまわりをめぐってできているに違いないと証明したのだ。
土星を思い浮かべればいいと長岡は説明している。中心にある正に帯電した粒子が土星本体で、負に帯電した電子が環に相当する。この「土星モデル」が物理的に安定であることを長岡は示したのだ。この重要なブレークスルーのきっかけは何だったのか?
ある面では、ヨーロッパで過ごした時期の影響がはっきりと認められる。実際に長岡は1900年にパリで開かれた第1回国際物理学会議に参加して、電子を発見したイギリス人科学者J・J・トムソンと出会っている。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら