20世紀半ばにイギリスやアメリカ合衆国の歴史家たちが、『近代科学の起源』といったようなタイトルの本を世に出しはじめた。彼らはほぼ例外なく、近代科学と近代文明は16世紀頃にヨーロッパで生まれたと信じ切っていた。
ケンブリッジ大学の著名な歴史家ハーバート・バターフィールドも1949年に、「科学革命は西洋の創造的産物とみなすべきである」と述べている。
同様の見方は大西洋の対岸でも示された。1950年代にイェール大学の学生たちは、「西洋は自然科学を生み出したが東洋は生み出さなかった」と教えられたし、世界一の権威を持つ科学雑誌『サイエンス』は「西ヨーロッパの少数の国々が近代科学の生家となった」と論じた。
冷戦期に利用された作り話
このような主張の政治的意図はこの上なく明らかだ。彼ら歴史家が生きたのは、資本主義と共産主義の対立が世界政治を支配していた冷戦初期である。彼らは東洋と西洋をはっきりと区別した上で現代の世界を見つめ、意図的かどうかは別としてその区別を過去にまで延長した。
当時、とりわけ1957年10月にソ連が世界初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げて以降、科学技術は政治的成功の証しであると広くみなされていた。
そのため、近代科学はヨーロッパで発明されたという作り話は、西ヨーロッパやアメリカ合衆国の指導者にとって都合が良かった。市民たちが、歴史の正しい側にいるのは自分たちで、自分たちが科学技術の進歩を担っているのだと思い込んでくれることが何よりも大事だった。
このような科学史はまた、植民地から独立した世界中の国々に資本主義の道を歩ませて、共産主義を排除させるようにもできていた。
冷戦期、アメリカ合衆国は対外援助に何百億ドルも費やして、アジアやアフリカ、ラテンアメリカの国々に自由市場経済と科学の発展をセットで売り込んだ。ソ連の進める対外援助計画に対抗するためだった。
「西洋科学」と「市場経済」の組み合わせがまさしく経済的な「奇跡」を約束する、とアメリカの政策立案者は説いたのだ。
皮肉なことにソ連の歴史家も、近代科学の起源に関してこれとほぼ同じストーリーを後押しする結果となった。
ロシア皇帝のもとで活躍したかつてのロシア人科学者の功績を無視して、共産主義政権下での科学の華々しい発展を売り込もうとしたのだ。
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