「家康はなぜ江戸を選んだか」超納得の深いワケ 小田原でも鎌倉でもなかったのはなぜなのか

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それにしても、家康はなぜ江戸(城)に入ったのか、江戸を選んだのか。それまで、関東を支配してきた後北条氏は、小田原を本拠地としていた。しかし、小田原は関東平野の西の端にあり、関東や東北ににらみをきかせるには、位置的に不適格と判断されたのであろう。

武家政治の始まりの地と言える鎌倉も本拠地の候補からは外れている。家康は自らを清和源氏に連なる者と思っていたし、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝を尊敬していた。そうした由緒的なことを考えたら、鎌倉は本拠地として最適だっただろうが、土地が狭く、多くの徳川家臣を住まわせるには手狭であった。

選んだのは小田原でも、鎌倉でもなかった

ではなぜ江戸だったのか。室町時代に扇谷上杉家(関東管領・上杉の一族)の重臣・太田資長(道灌)が、江戸に城を築いた。江戸はその後、上杉家そして後北条氏のものとなるが、草深い田舎ではなく、それなりに発展していたと考えられている。そうした事も、家康が江戸を選んだ理由の1つであるとされる。

また単にそれだけではなく、江戸の地理や軍事的理由もあったのではないか。当時は、江戸城の前が浜辺であり、入江が今の大手町の辺りまで広がっていた。

どうする家康
旧江戸城大手門(写真: degu66 / PIXTA)

物資を海から船で運ぶのに、適していると言える。戦の際に、軍船を出すのにも便利だ。さらに江戸は関東平野を流れる河川に囲まれており、防御にもよい。軍事・流通・経済のことを考えると、江戸の代わりとなるような場所もそうそうない。

江戸を選んだ家康はやはり賢明である。家康の関東の領国は約240万石。このなかで、徳川家の直轄地は、100万石から120万石と言われる(武蔵・下総・上総・相模国など)。それ以外は、家臣に分配された。

こうした家臣への知行割は、まずは上級家臣から行われたようだ。例えば井伊直政は、上野国箕輪12万石を拝領しているし、本多忠勝は上総国大多喜(千葉県夷隅郡)10万石を拝領することになる。『家忠日記』で有名な松平家忠は、武蔵国の忍城に入るように命じられた。家康は縁もゆかりもない土地、それどころか、昨日までの敵地に乗り込んだことになるが、その一方で、約240万石もの領国を獲得したことになる。こうして家康は、豊臣政権の重臣として活躍していくことになるのである。

(主要参考文献一覧)
・岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』(教育出版、1999)
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数

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