「家康はなぜ江戸を選んだか」超納得の深いワケ 小田原でも鎌倉でもなかったのはなぜなのか

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秀吉は、なぜ家康を東海から関東に移らせたのか。家康はそれ以前にも、秀吉になかなか従属しない北条氏との交渉を担うなど、関東地方の政治的安定に向けて尽力する立場であった。

そして戦(小田原攻め)が起こると大軍を率いて、北条氏攻めに加わった。秀吉は、家康を関東に国替えさせて、小田原攻め後も、そのような役割を担わせようとしたのだ。

さて、関東への国替えが決まると、家康は旧領から役人や代官・下級役人を急いで呼び寄せ、関東での家臣の配置を命じた。その準備が整うと、7月29日に小田原を出て、8月1日に江戸城に入ったという(『徳川実紀』)。

『徳川実紀』は、家康の江戸入城が、天下泰平の世を築いた基礎となったと称賛している。

家康が江戸城に入った8月1日は、江戸時代、「八朔(はっさく)」として記念日となり、大名や旗本が白帷子を着て登城、将軍に祝辞を述べる行事が行われることになる。

なお元々、八朔(八朔の祝い)というのは、初穂(その年に初めて実った稲の穂)を祝う儀式で、農民が知り合いに初穂を贈ったことを起源とするという。これが、公家や武家にも伝わり、室町時代には、将軍が天皇に太刀や馬を献上し、天皇からは銚子や紙などが返礼として与えられることもあった。

戦国時代にはこうした儀礼はほぼ途絶えていたが、江戸時代初期に復活した。徳川幕府三代将軍・家光の時(1643年)には「八朔参賀」と呼ばれる、重要な行事として位置づけられた。

8月1日より前に江戸に入っていた?

さて、話を元に戻そう。家康は8月1日に江戸城に入ったとされているが、実際には8月1日以前に、江戸入りしていたと思われる。

家康の家臣・高力清長が豊臣家臣の片桐且元らに出した書状(天正18年=1590年7月26日)には「拙者、江戸に参り、詳しく、家康へ言上した」との一文がある。これは、7月26日以前に、家康が江戸に入っていた証拠と言えるだろう。

また、秀吉は7月16日に小田原を出立し、会津に向かうが、その途上には、江戸に立ち寄っている(同月19日)。家康は秀吉を出迎えたと思われるので、7月18日には江戸に入っていたようだ。

つまり小田原城開城が7月5日とすると、それから13日後には江戸に入っていたのだ。三河・遠江国など馴染みがある旧領に帰る暇はなかったようだ。

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