――アジア研究協会の大会ためにシカゴに訪問をする際、声明を作成する議論はすでに進行していたのでしょうか。
サンド: すでに複数の議論が進行していました。マグロウヒル社に対して外務省が教科書の記述を替えるよう要求した問題は、相当に大きな議論を引き起こしました。とっくに撤回された記事にまつわる激しい朝日新聞たたきも話題になっていました。日本の状況全体が不寛容に向かっているようでした。
昨年12月の時点で、ある種の声明を出すべきであり、少なくともそれは可能なはず、との結論に達しました。2月には、ダデンさんと私は古くからの同僚にメールで連絡を取り、懸念を共有するアジア研究協会大会の参加者が議論するために集まることにしました。
ダデン: 私たちは組織ではないので、アジア研究協会の大会で部屋が自動的に用意されることはありませんでした。自分たちで確保しなければなりませんでした。アジア研究協会の年次大会は、多数の日本専門家が一つの場所に集う完全に唯一の機会ですから、声明の発表にはずみを付けるためには、シカゴ大会に向けて打ち合わせる必要があることは気づいていました。
サンド: 午後11時30分に部屋を予約しました。全員が空いているのは、その時間しかなかったからです。グループとして声明を作成できるか、私たちに何を述べる権利があるだろうか、声明を出す事は建設的だろうか、などについて議論するためでした。議論はとても建設的でしたが、結論には達しませんでした。多くのよいアイデアが出ましたが、具体的に何を盛り込むか、どのように述べるべきか、誰に対して述べるのかなどは決まりませんでした。
アジア研究協会の大会後は、ダデンさんと私がメールの交換手のような役割を果たしました。つまり、シカゴの夜更けの会合に集まった約30人の参加者が、その後もメール会議を続けたわけです。その約30人が他の人たちにも相談をすることで、参加者はその後も増え、そうした中で草案が回覧されました。すべてが自発的に行われたものです。やがて内容が固まって、草案を読んだ者が、少なくとも妥当な内容であると思えるものになりました。
核になるメンバーは29人いた
――最初の草案には1人の書き手は存在したのでしょうか。
ダデン: 惜しいですね、そうではありません。187人がすべて書き手なのです。
サンド: 私が書記のような役割を果たしました。会議で出た主な論点をまとめ、それを回覧しました。1カ月半をかけて、私は句読点を加えたり削除したりし、仲間の多くが満足できるような文書に仕上げました。その時点で、非常に多くの人たちが草案を読んでいました。そのため、未完成のままメディアに発表されてしまうことを心配して、最終版を早く出す必要を感じました。
そのようなわけで、全員に24時間以内に英語と日本語の両方の最終版を確認してもらうよう依頼しました。最終版が自分の意見を反映していないと判断したら自分の名前を削除できます。署名者の名前のスペルが間違っていないかを確認してもらうためでもありました。
――声明を共同でまとめた核には30人程度がいたのでしょうか。
ダデン: 正確には29人です。まず声明の草案作成に深く関与した5~6人がいて、追加または削除したい形容詞や句読点があると、サンドさんに修正を要求しました。
サンド: 声明は常識的な文言で構成されていますが、すべての行程を完成するまでにひと月以上を要しました。
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