なぜ平等で格差が小さい社会ほど幸福度が高いか 「親ガチャ社会」の日本に未来がない納得理由
ところで以上の議論は、論理としてはそうかもしれないがどこか非常に“社会主義的”で、いささか乱暴な議論のように感じる人がいるかもしれない。
しかしそれは必ずしも妥当ではない。なぜなら、以上のような考え方は、第二次世界大戦後の世界ないし20世紀後半の世界において、多くの西側先進諸国において取られてきたいわゆる「ケインズ政策」(またはケインズ主義的福祉国家)の論理と同じ発想のものであり、いわば“ケインズ政策の「幸福/ウェルビーイング」バージョン”と呼べるような内容と言えるからだ。
所得再分配と「幸福/ウェルビーイング」
それはこういうことである。ケインズは、「限界消費性向(marginal propensity to consume)の低減」ということを議論の出発点に置いた。収入が増加するほどには消費は比例的には増えないという事実である。そうすると、そこからの単純な帰結として、「所得の再分配を(政府が)行い、高所得層から低所得層に所得を一定移転したほうが、社会全体の消費量は増える」ということが派生する。
加えてケインズのもう一つの画期的な発想は、経済を大きくしていくのは「供給」ではなく「需要」であるとした点だった。したがって、上記のような所得再分配は、(所得の平等化をもたらすと同時に)社会の総消費ないし総需要を増加させ、それによって経済成長をもたらすという議論を展開したのである。
この内容は、次のように考えればごく当たり前のこととして理解できるだろう。すなわち、“一部の富裕層のみが自動車を所有するような社会と、ほとんどの人が自動車を所有するような社会とでは、どちらが経済の規模は大きくなるか?”という問いを考えてみよう。当然それは後者であり、上述のケインズの議論は実質的にこれと重なっている。
基軸となるのは「所得の再分配→所得の平等化プラス総需要の増加→経済成長」という論理であり、現実にもこれが上記のように第二次世界大戦後の先進諸国において起こったのだった(拙著『ポスト資本主義』でも論じたように、こうした政策の方向が最も明確にとられたのはヨーロッパ諸国だった)。
一方、以下の図に示されるように、先進諸国の経済成長率(GDP増加率)は1960年代から最近にかけて段階的に減少し、近年では構造的に低い水準となっている。これは、モノと情報がこれだけあふれた社会となり、人々の需要が大方成熟ないし飽和していることからすれば当然の事態であり、再び高度成長期のような時代が来ると考えるのはミスリーディングである。
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